『政略結婚を強いられた私。でも仮面の夜、運命が変わった』

@dayxwrite

取り返しのつかない決断

公爵の執務室には、古い羊皮紙とインク、それに消したばかりのパイプのほのかな燻った香りが漂っていた。そこは静かな外交のために設計された空間だった。──あるいは、マリアムがよく言うように「裏で物事を処理する場所」でもあった。


そして彼女は、そこで起こる数々の理不尽さを聞いてきた。ただ、無理やり作った笑顔の下で「何も聞いていません」というふりをするしかなかったのだ。本当のところ、彼女は盗み聞きしたり、あるいは夜遅くにちょっとした軽食が欲しくなった時に耳にしてしまったりしただけである。もし父がそんな不始末を知ったなら、間違いなく手痛い叱責を受けるに違いなかった。


夜明けの強い光が高い窓から差し込み、壁を飾る祖先たちの肖像画に長い影を落としていた。──そう、夜の台所への旅や、町への数え切れないほどの抜け出しの最中に、彼女を怯えさせたあの肖像画たちである。


マリアムは、マホガニーの机の前にまっすぐ立ち、祖先たちが肩に乗りかかっているような重さを感じていた。


彼女の父、公爵は、白髪混じりの髭と鋭い目を持つ男で、普段なら畏敬の念を抱かせる人物だが、今の彼女に向ける視線は、父親の愛情ではなかった。冷静に状況を見極める策略家のそれだった。


「お前は彼と結婚する。すべて決まったことだ。明後日の夜、アングレニア王太子殿下の十八歳の誕生祭で、お前たちの婚約を発表する。」


マリアムは信じられなかった。この一週間、彼女は父に何度も思い直してほしいと懇願していたのだ。


両親とは違い、彼女は結婚が人生のすべてだとは思っていなかった。若さを楽しみ、自分の好きなことを学んでみたかった。王女や王妃、あるいは彼女のような高貴な令嬢がすべきとされることではなく、彼女自身の望むことを。なにせ彼女はアングレニアで最も重要な公爵家の一人娘であり、王家に最も近い家柄なのだ。


彼女は、王族の一員──正確にはあの王族──になるつもりがないことを父に訴え続けていたことを鮮明に思い出した。


「お父様、お願いです、どうか考え直してくださいませ。他にもこのような“問題”を望むご令嬢は山ほどいるはずです。」


マリアムが言い返すと──それがどれほど正当な意見であっても──公爵である父は、まるで冗談にもならないという表情をした。


「問題? なんと申した?」

父の声は怒気を含んでいた。

「どれほど多くの者がお前の立場を羨むか、分かっておらぬのか、小娘。」


実のところ、マリアムは分かっていた。いやというほど分かっていた。幼い頃からその役目を果たすために育てられてきたのだ。どうやら彼女の両親──そして王太子の両親も──彼らが生まれる前から決めていたらしい。それが彼女には、まったくもって馬鹿げているとしか思えなかった。


父母と王太子の両親は、遥か昔にとある酒場で出会ったらしい。その頃、レオポルド王はただの宮廷の下働きに過ぎなかった。アングレニアの歴史とはなんと奇妙なものか──。


「だからこそ、夢を叶えさせてあげてください。そして私にも……私の夢を叶えさせてください。」


最近、妙に機嫌の悪い父は、机を手のひらで強く叩いた。鈍い音が部屋中に響き、棚の花瓶がかすかに震えた。


「もうよせ、マリアム!」

普段は冷静な声が、怒号となって室内を突き刺した。

「夢だと? そんなものは務めと両立せぬ! アングレニアの王冠も、コーンウォールの安定も、この婚姻にかかっておるのだ。我らにとって唯一の盾よ。ヴァレノリアの敵意にも、ウィスパーウッドの脅威にも対抗し得る。これは気まぐれではない。政治的必然だ。お前の母と私は、この結びつきを成すため努力してきた。それをお前の……子供じみた反抗心で無駄にされてたまるか。受け入れろ。お前は私のたった一人の娘だ。求められることを果たせ。」


まるで天気の話でもしているかのように告げられたその言葉は、マリアムに拳で殴られたかのような衝撃を与えた。噂は流れており、数週間もその話題を必死に避けてきたが──父の口から聞くと、あまりにも重かった。


「部屋へ戻れ。侍女が婚約用のドレスの採寸をする。」


そう言い残すと、父は背を向けて執務室を出て行った。マリアムは、呆然と立ち尽くすしかなかった。父の言葉が耳の奥で反響していた。「受け入れろ」。


閉ざされた扉を見つめながら、マリアムは涙を一滴たりとも流さなかった。数週間続いた恐怖は、静かだが強固な決意に変わった。父が彼女に判決を下したのなら──彼女もまた、自分の答えを選ぶだけだ。


(***)


執務室を出たマリアムは、コーンウォール宮殿の長い廊下を歩いた。あの部屋の圧迫感がまだ身体にまとわりついているようで、自室に戻るとほっとしたように息を吐いた。扉を静かに閉める。


中はまさに王女のための豪華な部屋だった。エメラルドグリーンのベルベットのカーテンが重く垂れ下がり、美しい庭と噴水の見える窓を飾っている。暖炉の火が柔らかくぱちぱちと音を立て、木の香りが漂っていた。それはいつもなら心地よい香りだったが──今日は檻の匂いだった。


侍女のエララ、彼女と同じ歳であり、唯一の友でもある少女が待っていた。


「公爵様からです、お嬢様……」

エララは布を広げた。それは婚約用のドレスの布地だった。上質な絹で、指先で触れるとほとんど溶けそうなほど柔らかく、しかし重さを感じる。アングレニア王室専属の仕立て師によるものだろう。確かに美しい──銀糸が何百もの蝋燭の光を受けて輝くだろう──残念ながら無駄になるだろうけれど、とマリアムは思った。


マリアムは扉に寄り、鍵がしっかり掛かっているかを確認する。壁越しに誰かが聞いていないかも確かめた。暖炉の音だけが室内を満たす。彼女の内側で荒れ狂う嵐とは対照的な静けさだった。


「エララ……」

マリアムは、侍女が一度も聞いたことのないほどの緊迫した声で囁いた。

「今夜、ここから逃げるのを手伝ってほしい。」


エララは顔色を失い、布を床に落とした。それは海の泡のように広がった。彼女の瞳が大きく見開かれ、暖炉の火を映した。


「逃げる……? お嬢様、何をおっしゃって……公爵様も、衛兵も……」


「お父様が……私の結婚をアーサーと決めたの。明後日、発表される。無理よ、エララ。私はあの方とは結婚しない。」


「ここに残れば、私は終わるの。飾りに成り下がるわ。夫の決定に頷くだけの従順な妻になって……そんなの耐えられない。心が死んでしまう。」


エララは恐怖よりも、心配の色を見せながら近づいた。彼女はマリアムと共に育ち、密かに町へ行く時も、禁書の魔法書を読む時も、嘆きの森へ冒険に行く時も、全てを知っていた。


「ですが……お嬢様……どこへ行かれるおつもりで……? この城の外など、ご存じないでしょう。それに、外の道は危険ですし、あなた様は公爵家の令嬢。誰にでも知られてしまいます……」


その時、扉を叩く硬い音が響いた。


コン、コン、コン。


二人は息を呑んで固まった。

エララは急いで布を拾い、近くの家具の下に隠した。


「……どなたですか?」

マリアムは、鼓動が胸を叩き割らんばかりである。


「私だ、マリアム。エドマンドだ。」

扉越しに、兄の落ち着いた声が聞こえた。


マリアムは唾を飲み込んだ。

エドマンドは、彼女より二歳年上で、兄妹の中で一番仲が良かった。友であり、理解者であり、心の支えだった。だが今回は助けてくれるかどうか──。


マリアムはエララに目で合図した。

侍女が扉を開く。


現れたのはエドマンド──20歳の若者で、その美貌は妹とよく似ていた。秋の陽に焼けたような濃い銅色の髪、そして一族特有の鮮烈なエメラルドの瞳。背が高く、鍛えられた体つきで、深い色の公爵家の軍服を着ていた。


「エララ、席を外してくれ。」

兄は丁寧に言った。


エララが退出すると、エドマンドはマリアムに向き直った。


「父上から……お前との口論のことを聞いた。お前を説得するように頼まれた。」


「説得?」

マリアムは腕を組んだ。

「“務めよ、言われた通りにしろ”のことを、今は説得って呼ぶわけ?」


「マリアム、頼むよ。父上がどういう方か知っているだろう。それに、この婚姻はアングレニアにとっても、我々コーンウォールにとっても重要なんだ。これで俺たちは守られる。東のヴァレノリアから。」


マリアムは知っていた。

コーンウォールは豊かで誇り高いが、西にアングレニア王国、東にヴァレノリアやウィスパーウッドがあり、孤立した小さな自律公国だった。


父が最も強い味方──そして親しい王家──と結ぶのは当然だ。


だが、ヴァレノリアが軍事的に強大になりつつあるという噂を、彼女は夜の町で聞いていた。


ウィスパーウッドについてはあまり知らなかったが、穏やかだからといって警備を緩めてはいないようだ。


ただ一つ確かだった。

彼女は政治の犠牲になるつもりなどなかった。


「大勢のご令嬢が、政治の犠牲になりたくてうずうずしているでしょうよ!!」

マリアムは叫んだ。

「エド、お願い……私には無理なの。」


エドマンドは長く息を吐いた。


「分かってる。分かってるんだ、マリアム。俺だって……お前を不幸にしたくない。お前は俺のたった一人の妹なんだ。」


「だったら逃がして……お願い。」

マリアムの瞳に涙が溢れた。


エドマンドは痛ましそうに首を振った。


「できない……俺にも役目がある。俺は未来の公爵だ。父上は俺に、この婚姻を成功させる責任を託している。これが失敗すれば……コーンウォールは揺らぐ。」


「じゃあ私の人生は? エドマンド、私の人生はどこにあるの?」


兄の表情が柔らかくなり、彼女の肩に手を置いた。


「俺たちは……自分の人生の主人じゃないんだ、マリアム。生まれた瞬間から、役割が決まっていた。それが呪いであり、特権なんだよ……。」


「アーサー殿下は……夢に描くような男ではないかもしれないが、誠実なお方だ。良い人だよ。」


マリアムは、誠実かどうかなど全くどうでもよかった。

たとえ世界一の美形だったとしても、彼女はアーサーを憎んでいた。両親の前では上手く隠せても、エドマンドの前では隠す気もなかった。


「誠実だろうがなんだろうが、私は“政治の道具”として扱われる人生なんて嫌。──誰も分かってくれないのね。」


「マリアム……本当に、他の道があれば……俺だって……。お前を悲しませたくない。だが……受け入れてくれ。」


「……エド、そんなお願いをするなんて……ひどいわ。」


エドマンドは胸を刺されたような顔をして、ゆっくり目を閉じた。


「どうか……馬鹿な真似はしないでくれ。運命を受け入れて……頼む。」


最後に静かに頷くと、兄は部屋を出て行った。


再び一人残されたマリアムは、確信した。

エドマンドですら助けられないのなら、自分の道は一つしかない。


逃げる。


捕まるかもしれない。

罰を受けるかもしれない。


だが、アーサーとの婚約だけは──絶対に阻止する。


婚約発表の舞踏会は明後日。

与えられた時間は四十八時間。


マリアムは、自由を求めて自分の運命を塗り替えるための逃亡計画を、今から始めるのだった。



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作者ノート

ホリィ〜!!

まず最初に、この第1話を読んでくれて本当にありがとうございます。

実は、私は執筆の世界ではまったくの初心者なんです!


ちょっと変かもしれないけど、この物語は化学の授業中にふと思いついて、

「書いてみようかな?」って思ったんです。


LanguageTool さん、本当に命を救ってくれてありがとう!


最後に、第2話の投稿があまり遅くならないように頑張ります…

私、とってもワクワクしています!


もしよければ、フォローしてくれたり、この物語にたくさんの愛を送ってくれたらすごく嬉しいです。

それでは——


禁断のキス をこめて、

Day より。

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