結びとは?

人生の終わりはきっと死を意味する。


順風満帆と胸を張って永遠の眠りにつける人はどれほどいるのだろうか。病院のベッドの上で、咽び泣き、もっと生きたかったと嘆くかもしれないし、突如として事故に巻き込まれて、命を落とすかもしれない。死は平等に訪れ、それは時に理不尽に降り注ぐこともある。不透明な死という概念を背負いながら、人生という長い道のりを歩む。


人生の参考書はそういった長い道のりの途中にある看板のような存在である。あらゆる人生の岐路に立ったとき、人生を諦めそうになったとき、真剣に人生と向き合おうとしたとき、ある一つの道しるべとなる。だが、その道しるべはあくまでも生きるヒントに過ぎない。大切なのは、その看板の内容を受けて、読者がどのように咀嚼し、判断していくかということだ。答えはいつも自分の中にしかない。人は迷えば迷うほど、何かに縋りたくなるものである。


誰かの言葉に。

誰かの信条に。

誰かの生き方に。


主語を自分ではない誰かに託すのは非常に勿体ないことであるし、それは自分自身の人生とは言えなくなるだろう。


何かうまく行かない。

どこか虚しさが残る。

幸せになり切れない。


そう思う人は、今すぐ立ち止まった方がいい。

きっと自分の足ではない、誰かの足を借りて人生を歩んでいるから。別に、そういう生き方がダメだとは言わない。けれども、どこか現状に満足し切れていない不全感があるのなら、一度立ち止まり、自分の生き方を見直してみることをおすすめする。


ここまでは、おそらく数多くの自己啓発本などに書かれている内容ではなかろうか。幸せになるためには、自己理解が必要で、自己認知していく中で自分を育てていく。そういったことは多くの人が理解し、それに挑もうとしているはずだ。人生の参考書ではそれに加えて、他者と共に生き抜くという視点を取り入れたいと思う。先ほどは、誰かの足を借りては~と述べたが、全てにおいて自分の足のみで歩いていくなど困難極まりない。むしろ、片方は誰かの足を借りて、もう一方は自分の足で歩くくらいの方がずっと楽である。


しかし、難しいのはその楽に縋りすぎると、いつの間にか自分という存在がおざなりになる。主語を大きくしてしまうが、日本人は特に相手を尊重して自分を卑下するという状況になりやすい。この様式美がいろいろな障壁を生み出すことにもなるし、それこそ他者と共に生きる視点がこぼれていきやすい。常に相手を尊重し続けながら生きるというのは、つまり自分を押し殺すことにも繋がる。この構図は本当の幸せと言えるのだろうか。


無意識的に植えつけられたこの幻惑を打ち砕かなければならない。

我々はどこかで相手に迷惑をかけずに生きようとする。また、自分の子どもにも人様に迷惑をかけないように生きなさいと伝えてしまうかもしれない。けれども、本当にそれが正しいのだろうか。なぜそれを正しいと思っているのだろうか。


では、迷惑をかけずに人は人生を歩んでいけるのか。

これは不可能といっても過言ではない。それなのに、我々は迷惑をかけないことが正しいと思い込んでいるし、実際にそう行動している人も少なくないだろう。このような信念は、疑われることなく、当たり前に受け入れられている。


確かに、迷惑をかけない方が表面的には素晴らしい人間に見える。だが、それはあくまでも表面的であるということを忘れてはならない。そのような薄っぺらい繋がりなら、人と関わるよりも、自分一人で生きていく方が楽だと勘違いしてしまう。また一つ人生を損することになりかねない。


幸せに生きる本質は、気遣いではなく、互いにありのままをさらけ出しながら、互いに少しだけ迷惑をかけるというところにある。繕いや誤魔化しは誰も幸せにしない。ただ、幸せのように見えるごっこ遊びのようなことが展開されるだけである。


人生は、自分が主人公の物語である。

幸せにするのも、不幸せにするのもすべては自分である。

どうか、幸せになることを諦めないでほしい。

最期に、こんな人生で良かったと思えるために。

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人生の参考書 海岳 悠 @insharuS

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