生きる意味とは?
人生という物語は生きている人の分だけある。
そこにどれだけの意味を付与し、価値のあるものにしていくのか。
ただ、川の流れのように身を任せるだけの人生ではなく、ちゃんと自分の意志のもとで流れに抗いながら、自己という小さなかけらの山を築いていく。
現代人は無意識のうちにその山を築くことで満足感を得て、さらにはその価値観をみなに押しつけ合っている。このおかしさに気づくことなく、理想ともいえる自己実現を目指して日々奮闘しているのだ。
ずっと昔は生きるだけで価値があった。
しかし、時代の流れと共に生きるだけでは満足できず、人生に付加価値をもとめるようになってしまった。
何かをなして死ぬことが人生における幸せになりつつある。
本当の幸せたちはもう当たり前になってしまった。
現代は、誰かの幸せと誰かの幸せがぶつかり合い、それが相乗効果でどんどんと幸せと実感する閾値を上昇させていく。
我々はいつから生きるだけでは満足できなくなったのだろうか。
このような時代の流れの中で、生きる意味ばかりを追い求めすぎて迷走している人々もいる。
どうせ死ぬのだから、今頑張ったって意味がない。
そんな強大な死という概念を前にして、心を粉々に折られてしまう。
やる気が低迷して、それこそ川の流れに身を任せて流されていく。
そうして、はてと気がついたときには意味がないことをしてきたと過去を振り返って、虚無感を抱いてしまうことだろう。
人々は何に対しても、意味を持たせようとする。
これは別に生きることに限った話ではないはずだ。
目標や目的を決めてそれに向かって一生懸命やる方が意味になる。
そういう言葉を自分の心に言い聞かせて、または誰かに言い聞かせて、日々の不全感をごまかして生きる。
意味があることが良いと決めたのは誰なのだろうか。
そこに疑問を持つ必要がある。
当たり前に思っている価値というのは思ったよりも不安定で、少しつついてみたらボロが出ることもある。
意味をつついてみると、確かに物事を推進する力はあり、その推進している事実が人々を安心させる。なぜならば、成そうとしていたことが目に見えるように姿を現し、それこそ意味が付与されて価値のあるものになるからだ。
そら、やはり意味を持ってやることは正しいではないかと、ふんぞり返る人もいるかもしれないが、意味を持たせることで苦しくなるのは自分たちだということに気がついた方がいい。
先に、価値観を押しつけ合っていることがあると述べたが、まさしくその価値観の押しつけ合いが思考を停止させて“意味”という言葉を過剰に使用させようとする。
そのため、その物事をよく吟味せずに、世の中における正しい価値観という大きな意識が我々の中で潜在的に生きていて、それが勝手に判断してしまっているのだ。
つまるところ、価値や意味、また正義というポジティブに感じられる言葉たちは表裏一体で、いつでも正義は悪になりうるということである。
例えば、ヒーローと謳われる視点を見ているから、ヒーローが正義で我々の味方なのだ。でも、視点を変えて悪の組織を見てみると、そちら側にはそちら側の正義があり、ヒーローという視点で見ているから悪の組織が悪になっているだけなのだ。
このように物事は常に一長一短であることを深く理解し、意味を持たせることが必ずしも良いことではないということを頭の片隅に置いておかなければならない。
だから、生きる意味なんてものは必要ない。
意味を考えようとするから、人々は苦しんでしまうのだ。
意味という視点で考えずに、流れゆく時代の中で、「何をしたいか」「何が楽しいことなのか」という内側から湧き上がるものだけを感じて生きていくのも面白のかもしれない。
だって、人は死という限られた時間の中で自分だけのRPGをしているのだから。
楽しまなきゃ損である。
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