自立とは
自立しろ。
この言葉を聞かずして大人になったものはいないのではなかろうか。
誰しもが通り、誰しもが苦しみ、そして自立とは何だと嘆く。
まるで呪いの言葉のように付きまとい、自立しなければ大人としてまたは一人の人間として失格というレッテルを貼られる。
人が生きる中で自立というものはそれほど重要なものなのだろうか。
また、必要だとするのならば自立とは一体何なのか。
今回はそこに切り込んでいきたい。
そもそも、自立の定義は?
自立というのはこの“自立”とこの“自律”がある。
前者の方は、他の助けなしにまたは支配なしで、何事に対しても一人で行うことを指す。その一方で、後者の方は、自分自身で立てた規範に従って行動することを指す。
これをわかりやすくすると、前者は表面的で見えているところを指し、後者はもっとその人自身の内面のことを指す。例えば、お金を稼いで身の回りの出費はすべて自分で賄えるというのは前者であり、自分らしさをもっていて芯がぶれないといったものは後者の方になる。
というように、「じりつ」という言葉の中にはたくさんの要素が含まれており、かなり複雑なものと言っていいだろう。だから、「自立とは?」と誰かに問われたとき頭を悩ませ、自分自身は自立しているのだろうか、自立できるのだろうかと不安に駆られるのだ。
では、ここにおける自立の定義とは何か考えていきたい。
そもそも、自立は何事に対しても一人でやっていかなければならないというイメージが強い。これは本当に正しいのだろうか。
いや、辞書的な意味を考えるのであれば上記にあげたイメージで正しいと言い切れるが、現代社会においてその言葉の意味をそのまま適用してしまっていいのだろうかという疑問は晴れない。
果たして我々は一人で生きているのだろうか。
この問いかけにヒントがあるように感じる。
自立という言葉に執着し過ぎることで、自立を成し遂げるハードルが勝手に上げてしまっている。よくよく現実と照らし合わせてみると、一般的に自立している大人でもきっと誰かを頼っているはずだ。
人は一人では生きていけないということを念頭置かなければならない。だとするのであれば、自立というのはもっと違った捉え方ができるのではないか。
ここにおける自立とは、「他者に頼ることができ、また他者に頼られた際には手を差し伸べられて共に困難や課題に対して解決できる能力が備わっていること」を指す。
もちろん、これだけでは自立を表現し切れていない。だが、この視点が抜けていると、何でもかんでも自分でやらなければならないという重荷を背負ってしまう危険性がある。そして、そのハードルの高さが自立というものへの障壁になってしまうのだろう。
自分はどうしても誰かを頼ってしまう。
一人で何でもかんでもできない。
そんなことは当たり前だ。
どんな立派な人間であろうが、誰かを頼って生きている。
そのことを自覚し、さらにはそのことをどれだけ自分の中で受け入れられるのかということが自立する上で大切なことではないだろうか。
それらを全てすっ飛ばし、「自立するために」と一人で奮闘してしまうと、いずれ立ち行かなくなり、もしかしたらうつ病などを発症してしまうかもしれない。
そうならないためにも、自立というもののハードルを下げ、人に頼り頼られながらうまく生きていく道を模索していくというのが現代における自立の本質なのかもしれない。
では、自立が芽生え始めるのはいつ頃なのか?
この疑問を晴らすためには少々発達心理学を持ち出してこなければならない。
まず、幼児期に一度自立のきっかけをつかむ。
専門用語を使うのであれば、第一次反抗期である。
いわゆる、イヤイヤ期である。
今までは母子一体の中で安心感を抱きながら外界の不安な事柄に立ち向かって行くというところにあったが、イヤイヤ期に移行していくと、もっと自分で色々なことをやってみたいという欲求が芽生えてくる。そうすると、自然と母親の手から離れて行動するようになっていく。
この過程で、初めて自分一人で何かを成し遂げるという経験を積む。
そして、学童期後半から青年期前半にかけて自立への着手が始まる。
そこでもまた反抗期に直面することになる。
つまり、反抗期とは自立に向けた重要な時期であり、その時期をあっさりと過ごしてしまうと、未分化なまま青年期後半を迎えることになってしまう。そうなれば、「いい子なんだけどどこか主体性がないな」となってしまう可能性がある。
ここでもう少し深く踏み込むとしよう。
今までは自立の芽生えのことをピックアップしてきたが、そもそも自立は必要なのだろうか。
現代社会において主体性なく、川に流される小石のように何となく大学まで来たという人は少なくないだろう。そのような自立性がなくとも、やり過ごせて来てしまうシステムにおいてそもそも自立は必要なのだろうか。
では、自立していない人とはどうなるのか、ちょっと考えてみる。
みなさんはピーターパンをご存じだろうか。
彼は紛れもない自立のできない人に分類されるわけだが、彼の課題は大人になることまたは成長することを無意識的に拒んでいることだ。
そのことによって、様々な弊害が起きている。
ピーターパンから少し離れて現実的な人間に置き換えて考えてみる。
自立していない人というのは、どこか焦っている。
というのは、自立している人は心の拠り所を持っていて、それさえあればどんな困難にぶつかろうとも対処できる。
しかし、自立していない人はその起きた事柄に反発する力は弱く、心の拠り所が少ないもしくはないため、常に自分の心の拠り所を探し求めなくてはならない。
だから、自立していない人はどこか焦っているのだ。
その心の拠り所とは何なのか。
それは先に述べた他者の存在であったり、また自分自身のことを受け入れられることであったりその人なりのこれがあれば大丈夫というものを指す。
自立している人はこの心の拠り所をうまく活用できるが、自立していない人はなかなかその部分をうまく作り出せず、ところかまわず今目の前で自分の心を満たせそうなものに依拠する。
そうなれば、無駄なものを嫌い、承認欲求を過剰に求め、もしかしたら家庭内暴力で家庭を支配するかもしれないし、上司として権力を振りかざすかもしれない。そうやって、心の拠り所を一時的に作ってはまたなくなるということを繰り返してしまう。
そのような状態になると、夕日を見てきれいだなと思うことも無くなるし、雨上がりの空に虹がかかっていても気がつかいのだ。なぜならば、心の拠り所を探すことにしか目がいかないからである。
これらのことを踏まえると、自立というのは単なる社会適応の他に、自分自身の幸福とも直結してくることである。だから、大人たちは自立を促し、口酸っぱく何度も呪いの言葉のように繰り返すのだ。
自立しろ、と。
ただ、先に述べていた通り、自立は何も一人で何でもかんでもやれということではない。自分なりに受け入れながら、人に頼り頼られる中で過酷な社会を生き抜いていく。
それが自立なのだ。
そして、その自立の第一歩として、まずは自分自身を理解し受け入れていくということがとても重要になってくる。
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