大事なことは、遥さんから学びました

 マンションに戻り、二人並んで廊下を歩く。

 部屋の前に着くと、私は買い物袋を持ち替えながら、ポケットから鍵を取り出した。

 鍵を差し込み、扉を開けて、玄関の中へ一歩踏み出した、その瞬間だった。


「……はーるかさんっ!」

 声と同時に、背中にやわらかい重みがぶつかってくる。

 七海ちゃんが、勢いよく飛びついてきたのだ。


「ちょ、ちょっと!」

 私は思わず声を上げる。

 扉はまだ、完全に閉まりきっていない。


 どうにか身体のバランスを取り直して、扉が閉まると、カチリと玄関のカギをかける。

 私は軽くため息をつき、少しだけ低めの声で言う。


「急に飛びついたら危ないでしょ? こっちは、手がふさがってるのに」


「えへへ」

 七海ちゃんは、まったく悪びれた様子もなく、私の背中にほおを寄せる。

「だって、その手がふさがってるとこが、狙いなんですもん」


「……まったく」

 私は肩をすくめる。

「仕方ない子ね」


「これでもですね」

 私の身体からすっと離れた七海ちゃんは、少し誇らしげに言った。

「部屋に帰ってくるまで、ずーっと我慢してたんですよ?」


「はいはい」

 私は苦笑しながら、玄関の床にエコバッグを置く。

 中の玉ねぎと豚肉、プリンの重みが、ようやく腕から解放された。

 それから、くるりと振り返って、七海ちゃんの方を見て、軽く、両腕を広げる。


「……ほら」

 小さくあごを引く。

「おいで」


「はーい」

 七海ちゃんは、今度は慎重に、一歩近づいてきた。

 さっきの勢いとは打って変わって、そっと、確かめるみたいに身を寄せてくる。


 私は、その背中を包むように、軽く腕を回した。

 ギュッと力を入れるわけでもなく、ただ、受け止めるだけの抱擁ほうよう

 それでも、七海ちゃんは満足そうに、小さく息をつき、私の背中へ、ゆっくりと両手を回してきた。


「……落ち着いた?」

 私は、からかうように聞く。


「はい」

 七海ちゃんは、くぐもった声で答える。

「充電、完了です」


「なに、それ」

 思わず笑ってしまう。


 少し間を置いてから、私は続けた。

「ほら、今日は私に、手料理を食べさせてくれるんでしょ?」


「はいっ」

 七海ちゃんは、ぱっと顔を上げる。

 目をかがやかせて、力強くうなずいた。

「今のでもう、がんばれます!」


「……あなたも」

 私は、軽くため息をつくふりをする。

「きっちり前払い、させるのね」


「ええ」

 七海ちゃんは、胸を張る。

「そういうのが大事だいじって、遥さんから学びましたから!」


「変なところばっかり、覚えるんだから」

 そう言いながらも、私は七海ちゃんの頭に、そっと手を置いた。

 髪をなでると、七海ちゃんは、くすぐったそうに目をほそめる。


 私は、腕をほどき、やさしく言い聞かせる。

「さあ、手を洗って、お料理を始めましょ?」

「はーい!」


 私はキッチンに向かいながら、さりげなく言った。

「まずは……ご飯を炊かないとね」


「はい!」

 七海ちゃんは元気よく返事をして、すぐにスマホを取り出す。

「えっと……お米の炊き方……」


(あ、ちゃんと調べるのね)


 その様子を見て、私は一瞬、口を出しかけてから思い直した。

 全部を先回りして教えるより、できるところは任せた方がいい。


「じゃあ」

 私は計量カップを取り出す。

「二合、量っておくから。そこから先は、お願いね」


「はい、分かりました!」

 七海ちゃんは、スマホの画面を真剣に見つめながら、何度もうなずく。

 私は無言で、二合分の米をボウルに入れておき、また離れた位置へと戻る。

 あとは、七海ちゃんが指示通りに進めるだけだ。


「えっと……まず水を入れて……」

 七海ちゃんは、独り言みたいに確認しながら、進めていく。

 少し慎重すぎるくらいの動きが、今はちょうどいい。

 そうして準備を整え、最後に、炊飯器のボタンを押した。

 七海ちゃんは、ふうっと息をつく。


「……できました」

 小さく、でも達成感のある声。


「うん」

 私は少し離れたところから、その様子を見守りながらうなずく。

「ちゃんと、できてるわよ」


 七海ちゃんは、少し照れたように笑ったが、すぐにまた不安そうな顔になる。


「……やっぱり」

 私の方を見て、少し弱気に言う。

「ここからは……手伝ってください」


「いいわよ」

 私は、少しだけ七海ちゃんに近づく。

「何からする?」


 七海ちゃんは、スマホをもう一度操作する。

 スクロールして、指を止めた。


「えっと……」

 画面を見せながら言う。

「まずは、たれを作る、みたいです」


「そうね」

 私はうなずく。

「で、どうしたらいい?」


「小さいボウルを出して……」

 七海ちゃんは、確認するように言葉を区切る。

「そこに、調味料を全部入れる……で、いいですか?」


「うん」

 私は、棚からボウルを取り出しながら答える。

「それでいいと思うわ」


 七海ちゃんは、少し緊張した様子で、調味料を一つずつ並べる。

 計量スプーンを持つ手が、ほんの少し震えている。


「えっと……大さじって、小さじだと……?」

 一つずつ、こぼさないように慎重に、ボウルに落とす。

 それを何度か繰り返してから、混ぜ始めた。

 カチャ、カチャ、と小さな音がして、たれが少しずつ均一になっていく。


「……それくらいで、いいかしらね」

 私は静かに、声をかける。


「はい……たぶん」

 七海ちゃんは、少し不安そうにしながらも手を止めた。


「じゃあ、次ね」

「はい」


 七海ちゃんは、スマホを見てから言う。

「次は……ここに、お肉を入れます」


 パックを手に取って、少しだけためらいを見せた後に、端を開けた。

 中身をボウルに入れて、たれとからめる。

 最初はぎこちないけれど、だんだん動きが落ち着いてくる。


「……ちゃんと、自分でできてるから、私が手伝う必要、なさそうね」


「えっ」

 七海ちゃんは、混ぜる手を止めて、私を見る。

「いえ、ここからなんです……」


「ふふ」

 私は、小さく笑う。

「できないところが、ちゃんと分かったのは、進歩よ」


「そ、そうですか……?」

 少しだけ、不安がやわらいだ表情になる。


「そうよ」

 私はうなずく。

「それに、分からないって言えるのも、大事なこと」


 七海ちゃんは、その言葉を聞いて、ゆっくりと息をはいて、もう一度ボウルの中を見る。


「……じゃあ」

 小さく、でも前向きな声。

「次も、教えてください」


「もちろん」

 私もキッチンに並ぶ。

「ここからは一緒に、最後までやりましょ」

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