それはもう、特別じゃない生活
七海ちゃんは、いつものように、唇を寄せてきた。
軽く、でも確かめるみたいなキスを、一つ。
「……じゃあ」
まだ少し
「食材の買い出し用に、着替えてきますね」
「はいはい」
私は笑いながらうなずく。
「走らないのよ?」
「もう! 子供じゃないんだから、走ったりしませんよ!?」
そう言い切りながらも、七海ちゃんは小さく弾むような足取りで続け、結局、自分の部屋の方へ
その背中を見送りながら、私は思わず息をついた。
(……ほんと、かわいい)
私も部屋着を脱いで、外出用の服に着替えてから、メイクをするために、洗面台へと向かう。
買い出しに行くだけなのだから、そんなに時間をかける必要もない。
ベースだけ整えて、あとは軽くリップを引いておく。
そんな仕上げを終えたところで、洗面所の扉が控えめに開いた。
「遥さん、準備できました」
七海ちゃんが、少しだけ遠慮がちに入ってくる。
視線を向けると、ふんわりしたひざ丈のスカート。
色味も、シルエットも、ブラウスによく合っている。
そのブラウスは、今朝も、着ていたものだ。
新しいものを出さなかったのは、たぶん、洗濯物を無駄に増やさないように、ということだと思う。
ほんの小さなことだけれど、そうしたことが自然に出てくるようになったのは、確かな成長だった。
(ちゃんと……生活するつもりで、ここにいるのね)
いつの間にか、私は七海ちゃんを、じっと見つめてしまっていた。
そのことに気づいたのか、七海ちゃんは、照れたような表情をしている。
「そ、そんなに見つめないでください……」
「……ふふ、かわいいわね」
私は思ったままのことを、口にする。
「えっ」
七海ちゃんが、ぱっと
「あ、ありがとうございます……」
少し照れたまま、鏡越しにこちらを見て、ためらいがちに続けた。
「じゃあ……その……」
一呼吸置いてから、意を決したみたいに言う。
「手、つないでもらえますか?」
「じゃあ、って何よ」
私は苦笑しながら、手を差し出す。
「……でも、つないであげる」
「えへへ……」
七海ちゃんは、安心したように笑って、その手をギュッとにぎってきた。
指先に伝わる体温は、しっかりと落ち着いている。
それは、落ち着いた生活を送るという決意を示しているようで、悪くなかった。
「行きましょ」
「はい」
二人で並んで、玄関へ向かう。
靴を
外の空気が、ふわっと流れ込んできた。
こうして並んで出かけるのも、もう特別じゃなくなる。
でも、それが今は、とても心地いい。
七海ちゃんの手をしっかりとにぎったまま、私はゆっくりと、外へ踏み出した。
マンションを出て、二人並んで歩き出す。
手はもうつないでいないけれど、歩幅は自然とそろっていた。
「買うもの、ちゃんと覚えてる?」
私は前を向いたまま、さりげなく聞く。
「覚えてますよぅ!」
七海ちゃんは、ほんの少しだけ不満げに言った。
「さっき、確認しましたし」
「じゃあ」
私は横目で七海ちゃんを見る。
「言ってごらん?」
「玉ねぎ
少し胸を張るように答える。
(……誰だって、最初はこんなものよね。仕方ないわ)
そんなことを思いながら、私は小さく笑う。
「ふふ。それだけの情報で、ちゃんと買えるかしら」
「え?」
七海ちゃんが足を止めかける。
「どういうことですか?」
「たとえばね」
私は、歩調をゆるめながら続ける。
「玉ねぎの『
「……あ」
七海ちゃんは、そこで初めて気づいた顔をした。
「確かに……」
「それに」
私は追い打ちをかけるように、それでもおだやかに言う。
「二人前って、何グラムくらいか、覚えてる?」
「……覚えてないです」
素直に白状する。
「でしょうね。それと、
「う……」
七海ちゃんは小さくうなったあと、はっとして言った。
「もう一回、ちゃんと見ます!」
そう言って、あわててスマホを取り出す。
「こらこら、ちょっと待ちなさい」
私はすぐに声をかける。
「歩きながら見るの、危ないでしょ」
「……あ、そうですね」
七海ちゃんは、素直に立ち止まってから、画面を見つめ直す。
しばらく真剣な表情でスクロールしてから、顔を上げた。
「えっと……」
「うん?」
「豚肉は、こまぎれって書いてあります」
指で画面を示しながら続ける。
「量も、グラムでちゃんと書いてありました」
「よかったわね」
私はうなずく。
「それなら、迷わない」
「でも……」
七海ちゃんは、少しだけ困った顔になる。
「玉ねぎの大きさは、『中』としか書いてないです……」
「そうでしょうね」
私は笑う。
「まずは、実物を見てから、また考えてみなさい」
「はい!」
七海ちゃんは、迷いなくうなずいた。
そんなやり取りをしているうちに、見慣れたスーパーの入り口が見えてくる。
「……なんか」
七海ちゃんが、小さくつぶやく。
「お料理って、思ってた以上に、考えることが多いんですね」
「そうよ」
私は当然のように答える。
「でも、一つできるようになれば、ちゃんとそれが自信になるんじゃない?」
七海ちゃんは、その言葉をかみしめるように、前を見た。
自動ドアが開き、店内の明るい光と、少しひんやりした空気が流れ込んでくる。
「さあ」
私は、七海ちゃんの背中を軽く押す。
「今日の主役は、あなたよ」
「……はい!」
少し緊張しながらも、どこか楽しそうな声。
その声を胸にして、七海ちゃんと並んで、スーパーの中へ足を踏み入れる。
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