キスしてくれたら、自信、持てるかもって
七海ちゃんは、私より少し早く食べ終えると、何も言わずに立ち上がった。
使っていた皿と箸をまとめて持ち、静かにキッチンへ向かう。
その背中を目で追っていると、しばらくして、控えめな声がかかる。
「……遥さん」
「なに?」
「このお皿……どうしたらいいですか?」
七海ちゃんは、皿を持ったまま立ち尽くしていた。
洗うでもなく、そのまま置くでもなく、判断を待つような様子。
「食洗機に入れちゃうから、シンクに置いておいて」
「分かりました」
言われた通りに皿を置いてから、少しだけ間を置いて、七海ちゃんは続ける。
「……使い方、覚えた方が――じゃなくて、覚えます」
「今日は、そこまでいいわ」
私は、みそ汁を飲み干しながら答える。
「それより、早く支度しなさい。早く行っちゃったほうがいいでしょう?」
「……はい」
素直にうなずいて、七海ちゃんはそのまま脱衣所の方へ向かっていった。
(……やる気になってくれれば、この子は強いのよね)
そんなことを思いながら、私も食べ終え、食洗機に食器を入れてスイッチを押す。
機械が動き出す音を聞いてから、軽く手を洗った。
しばらくして、足音がする。
振り向くと、もう身支度を整えた七海ちゃんが、キッチンに戻ってきている。
「……じゃあ、行ってきます」
少し言いよどんだその声は、さっきまでより、ほんの少しだけ心細げだった。
「だいじょうぶよ」
私は、おだやかに言う。
「やることは分かってるでしょ?」
「……はい。でも……」
七海ちゃんは、視線をさまよわせてから、意を決したように言った。
「……キス、してくれたら……自信、持てるかもって……」
「ダメ」
私は即答する。
「そういうのは、精算を終えてからって、言ったでしょ?」
「……ダメ、ですか?」
そう言いながら、七海ちゃんは一歩、距離を詰める。
その豊かな胸が、そっと控えめに、私の腕に触れてくる。
「……」
やわらかな、ふくよかなその感触に、思わず息が止まる。
「……ちょっと、そういうのは、ズルいわよ」
「だって」
七海ちゃんは、少しだけイタズラっぽく笑う。
「私の身体、期待以上にすばらしいって……言ってくれたじゃないですか」
「……」
私は、ため息をついてから、指先を持ち上げる。
「じゃあ……軽くだけよ。ほんとに――」
そう言いかけた、その瞬間だった。
七海ちゃんが、背伸びをして、私の唇に触れてくる。
触れたのは、本当に一瞬だけ。
「……っ」
驚く私をよそに、七海ちゃんはすぐに離れ、満足そうに笑った。
「えへへ……自信、つきました!」
「……もう」
私は、小さく首を振る。
「仕方のない子ね」
そう言いながら、七海ちゃんの手首を軽く引く。
「ほら、おいで」
今度は、私の方から、短く、でもちゃんと、唇に触れる。
「……さあ、行きなさい」
「はい!」
七海ちゃんは、今度こそ、はっきりした声でそう言った。
「それと」
玄関へ向かいかけた七海ちゃんの背中に、声をかける。
「家に戻るついでに、お仕事の服とかも、いくつか持ってくるのよ」
「……あ、はい!」
振り返った七海ちゃんは、さっきよりもずっと明るい表情をしていた。
「分かりました! ちゃんと選んできます!」
「無理に全部じゃなくていいから。必要そうなのを、少しずつね」
「はい!」
勢いよくうなずいてから、七海ちゃんは靴を履く。
ドアを開ける直前、もう一度こちらを振り返った。
「……行ってきます!」
「いってらっしゃい」
ドアが閉まる音がして、足音が遠ざかっていく。
それを合図にしたみたいに、部屋は途端に、朝の静けさを取り戻した。
「……」
私は、しばらくその場に立ったまま、何も考えずに息を整える。
さっきまでの気配が、まだ空気の中に残っているみたいだった。
(……ほんとに、騒がしい子)
でも、イヤな騒がしさではない。
むしろ、いなくなってからの静けさが、少しだけ、私にさみしさを感じさせてくる。
ふと、私の部屋の方へ、目を向ける。
(……そうね)
昨夜のことを思い出して、私は小さく息をはいた。
(シーツ……洗っちゃいましょう)
そのままにしておく理由はない。
私は寝室へ向かい、シーツを外して洗濯機に放り込む。
スイッチを入れると、モーター音が静かに響き始める。
薄いものだし、乾燥まで入れても、それほどの時間はかからないだろう。
(……洗濯が終わるまでの間に、少し食材の買い出しにでも)
冷蔵庫の中を思い浮かべて、そう考えかけたところで、ふと手が止まる。
「……あ」
鍵のことを忘れていた。
七海ちゃんには、まだこの家の鍵を渡していない。
今朝は勢いで送り出してしまったけれど、出かけさせたのだから、もう渡しておくっていう方法もあった。
(そんなにすぐ、戻ってくるわけじゃないだろうけど……)
それでも、もし先に帰ってきたら、外で待たされることになる。
(……それも、ちょっとかわいそうね)
私は、買い物に出ることをあきらめる。
(ひとまず、家にいましょう)
洗濯の音を聞きながら、私はリビングを見渡す。
自然と、奥の部屋――七海ちゃんのための部屋へと視線が向いた。
(……もう一度、ちゃんと掃除しておこうか)
誠が出ていく際に、軽く整えたけれど、せっかくならもう少していねいにしておこう。
七海ちゃんが戻ってきたとき、すぐに「自分の場所」だと感じられるように。
私は掃除道具を取りに行きながら、心の中でそう決める。
食洗器と洗濯機の、規則正しい音を背に、私は空き部屋のドアを開けた。
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