お茶碗、二つ
洗面所のほうから、水音が止む。
しばらくして、足音が近づいてきて、七海ちゃんがリビングへ戻ってくる。
まだちょっとしめった感じの手を揺らしながら、少しだけ背筋を伸ばしている様子は、どこかよそ行きだ。
でも、その視線は、やっぱりキッチンの私に向いている。
「……お待たせしました」
「ううん、ちょうどいいところよ」
私はフライパンをコンロに置きながら、振り返る。
「卵、どうしたい? 卵焼き? 目玉焼き?」
「え?」
七海ちゃんは、一瞬だけ目を
「なんでも、だいじょうぶです」
その返事に、私は手を止めて、もう一度だけ、七海ちゃんを見る。
「ほんとに?」
「……はい」
でも今度は、ほんの少しだけ、言い切るまでに間があった。
「……ほんとは?」
そう聞き直すと、七海ちゃんは、わずかに肩をすくめる。
視線を床に落とし、少し考えるような沈黙。
「……目玉焼き……」
小さな声だったけれど、ちゃんと聞こえた。
「固いの?」
フライパンに油をひきながら、続ける。
「それとも、半熟?」
「どちらでも――」
そう言いかけて、七海ちゃんは、口を閉じる。
それから、ほんの一瞬だけ、私のほうを盗み見るようにして、言い直す。
「……半熟……」
「分かったわ」
私はにっこりと笑って、答える。
フライパンに卵を落とすと、じゅっ、という音がして、白身がゆっくり広がっていく。
その音を聞きながら、私は炊飯器のほうへ視線を向けた。
ちょうど、そのタイミングで、炊き上がりの音が鳴る。
「七海ちゃん」
「はい」
「棚から二つ、お茶碗を出して、ご飯をよそってくれる?」
そうお願いすると、七海ちゃんは、少しだけ驚いた顔をしてから、すぐにうなずいた。
「……はい」
キッチンの棚を開けて、茶碗を一つ取り出す。
手に持ったまま、ほんの一瞬だけ、どうすればいいか分からないように立ち止まる。
「……これで……いいんですよね?」
「ええ。炊飯器、開けて」
七海ちゃんは言われた通りに、炊飯器のふたを開ける。
立ち上る湯気に、思わず目を細めた。
しゃもじを手に取る動きは、だいぶぎこちない。
ご飯をすくって、茶碗に移すときも、量を測りかねて、途中で止まる。
「……これ、少ないですか?」
「ちょうどいいわ」
そう言うと、七海ちゃんは、ほっとしたように息をはいた。
もう一度ご飯をよそって、今度は慎重に、形を整える。
慣れないながらも、一生懸命な背中だった。
私は、その様子を横目で見ながら、フライパンの火加減を調整する。
(……こういうの、ね)
頼まれたことを、ちゃんとしようとはするところ。
分からないままでも、投げ出さないところ。
朝のキッチンに、静かな時間が流れている。
七海ちゃんが茶碗をそっと置いて、こちらを見た。
「……できました」
「ありがとう」
私はそう言って、フライパンへと自然に視線を戻す。
それが、まるで前からそうしていたみたいに、当たり前だったことに、少しだけ胸があたたかくなる。
七海ちゃんは、よそったご飯の入った茶碗を両手で持ち、テーブルへと運んでいく。
一つ置いて、もう一つ。
動きはまだ慎重だけど、さっきより迷いが少ない。
「お椀とお皿も二つ、出してくれる?」
私がそう言うと、七海ちゃんは一瞬だけ考えてから、顔を上げる。
「はい」
今度は、さっきより少しだけ自信ありげな返事だった。
棚を開けて、みそ汁用のお椀を二つ、平皿を二枚、取り出してくる。
その並べ方も、七海ちゃんなりにちゃんと考えているのが伝わってくる。
私はその間に、みそ汁をよそい、目玉焼きを皿に移す。
半熟に仕上がった黄身が、白身の中央で静かに揺れていた。
「はい、どうぞ」
みそ汁をテーブルに置き、最後に目玉焼きの皿を並べる。
自然と、二人分が、きれいに整った。
「……じゃあ」
私はイスに腰を下ろし、軽く手を合わせる。
「いただきましょう」
「……いただきます」
七海ちゃんも、それに合わせて小さく手を合わせる。
一口、みそ汁を口に運んでから、ふっと息を吐いた。
「……あの」
「なに?」
七海ちゃんは、箸を置いて、少しだけ視線を下げる。
「さっき……目、覚ましたとき、先輩――じゃなくて、遥さんが、いなくて」
私の方を、ちらっと見る。
「……すごく、さみしかったです」
「そう?」
「でも……ちゃんと、いてくれて……それは遥さんの家なんだから、当たり前、なんですけど」
胸の前で、指先をぎゅっと重ねる。
「それで、朝ごはんも、作ってくれてて……幸せすぎます」
私は、目玉焼きに箸を入れながら、静かに返す。
「あなたもちゃんと、ご飯、よそってくれたでしょ?」
「……はい」
「それだけで、十分よ。今はね」
七海ちゃんは、少し戸惑ったように首を振る。
「でも……私、何もできなくて……ごめんなさい」
その言葉に、私は箸を置く。
「そのことなんだけど」
七海ちゃんが、ぴっと背筋を伸ばす。
「これからはね。あなたにも、一つずつ、覚えていってもらうから」
「……え」
「まずは、生活のこと。一つずつ、ね」
七海ちゃんは、少し不安そうに眉を下げた。
「……私に、できるでしょうか?」
「できるか、できないか、じゃないわ」
私は、きっぱりと言う。
「するのよ」
「……せ、先輩……」
「なに?」
「……ちょっと、怖いです……」
その言い方があまりに素直で、思わず吹き出してしまった。
「ふふ……じゃあ」
私は、わざと声の調子を変える。
「やってもらうわ。
「……っ」
一瞬きょとんとしてから、七海ちゃんも笑った。
「それもう……会社での呼び方、ですよね」
「そう」
「……なんか、変ですね」
「でも、切り替えは大事よ」
二人で小さく笑い合ってから、私は話を戻す。
「それでね。まずは」
七海ちゃんを見る。
「シェアハウスの精算を、しないと」
「……え?」
「当たり前でしょ?」
私はみそ汁を一口飲んでから、続ける。
「ここに住むんだから。きれいに引き払わないと」
「……できますかね?」
「できるか、できないかじゃない!」
さっきと同じ調子で言うと、七海ちゃんは肩をすくめる。
「……先輩、ついてきてくれたり……しないんですよね?」
「当然よ」
私は即答する。
「一人でするの」
「……」
「ご飯、食べ終わったら、行ってきなさい」
「え……今日、してくるんですか?」
私は、七海ちゃんの目を見る。
「今晩も、私に抱かれたかったら……今日、ちゃんとしてきなさい」
「……えー……」
七海ちゃんは、困ったように笑ってから、箸を握り直す。
「それなら……仕方ないし、がんばります」
それでもその声には、少しだけ、決意が混じっていた。
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