痕跡(こんせき)

 誠が出ていくとき、この部屋は、完全にけていった。

 家具も衣類も、紙切れ一枚残さず。

 掃除もきっちり、誠がしていった。

 だからここには、もう「誠がいた」という痕跡なんて、何ひとつないはずだった。


 出て行ってから、扉も開けていない。

 私自身が、その必要を感じなかったから。


 それなのに。


 掃除機をかける前に、クローゼットの中も一応確認しておこうと思って、扉を開いた。

 空っぽのハンガーパイプと、何も置かれていない床。

 やっぱり、何もない。


 ――はずだった。


 閉めようとして、ふと、視界のはしに違和感が残る。

 クローゼットの扉の、ちょうど蝶番ちょうつがいの少し上。

 裏側のすみに、小さな何かが落ちていた。


「……あれ?」


 指を伸ばす。

 扉の裏、その隙間に、ボタンが一つ、落ちていた。


 ありふれたシャツのボタン。

 特別な装飾も、刻印もない、どこにでもありそうなもの。

 はしが少し、欠けている。


 それを拾い上げた瞬間、私の中の一つの記憶が、するりとほどけた。


(……ああ)


 引っ越してきたばかりの頃。

 まだ段ボールが積まれたままの、この部屋で。


 誠がクローゼットの扉を勢いよく開けた拍子か何かに、シャツのボタンが引っかかって――

 ぱちん、と音を立てて、どこかへ飛んでいった。


 二人で床にしゃがみ込んで、少し探した。

 ベッドの下も、棚の奥も。

 でも、結局見つからなかった。


「もういいよ、飛んだままで」


 そう言って、誠は笑っていたけれど。


「そういうわけには、いかないでしょ」


 私はそう返して、裁縫箱を引っ張り出した。

 替えのボタンを探して、色を合わせて、ささっとぬい付けてあげた。


 たいしたことじゃない、ほんの数分の出来事。

 それなのに――


(……こんなところに、あったのね)


 指先に乗せたボタンを見つめながら、思う。

 結局、探していたときには見つからなくて。

 どちらも気づかないまま、ここに残っていた。


 そのシャツは、もうない。

 少し前に、いたんできたからと処分したはずだ。

 私が替えてあげたボタンも、一緒に。


(……もう、いらないわよね)


 私はさっと振り返り、部屋を出て、キッチンのごみ箱へ向かう。

 迷いはなかった。

 ボタンを一つ、そっと落とす。


 軽い音がして、ほかのごみの中へ、吸い込まれていった。

 それで終わり。


(……これで)


 クローゼットの前に戻り、もう一度、空っぽの中を見る。

 何もない。

 本当に、何も残っていない。


(誠が、ここで暮らした痕跡こんせきも……きっと、おしまい)


 そう思って私は、静かにクローゼットを閉めた。


 掃除機のスイッチを入れると、低い駆動音が部屋に満ちた。

 何かが出てくることは、さすがにもうないと、分かってはいる。

 それでも、部屋のすみまで、つい念入りになる。


 掃除機をかけ終えたあとは、シートを使って拭き掃除もしておく。

 木目に沿って、かすかな水の跡が残る。

 誰のものでもない、まっさらな空間。


 使い終わったシートを捨てて、ふと、考える。


(七海ちゃんは……この部屋、どう使うのかしら)


 ベッドやデスクは置くのだろうか。

 壁に何か飾るタイプだろうか、それとも、何も置かないままが落ち着くのか。

 想像しているうちに、自然と口元がゆるむ。


 クローゼットには、彼女の服が並ぶことになる。

 私が知らない色や形。

 仕事用のきちんとした服と、休日用の少し力の抜けたもの。


(……あの子、持ってる服多そうだし)


 朝、どんな顔でこの部屋から出てくるのか。

 まだ眠そうなままか、それとも、ちゃんと身支度を整えてくるのか。

 そんなことを考えるのは、少しだけ、楽しい。


 部屋を見回すと、窓から入る光が、床にやわらかく落ちている。

 音もにおいもなく、過去に引っ張られるものは何もない。


(……だいじょうぶ)


 ここは、もう、新しい人のための場所だ。

 思い出も何もかも、残っているものはない。


 私は静かに部屋を出て、扉を閉める。

 入ってきたときよりも、さらに軽い気持ちで。


(……ちゃんと無事に、帰ってこれるわよね?)


 そう思いながらも、不安より先に浮かんだのは、帰ってきたときに、どんな顔をするだろう、という想像だった。

 私はリビングへ戻り、もう一度、部屋全体を整え始める。

 この家は、これから少しずつ、二人の生活に合わせて変わっていく。


 そのための歩みが、今また一つ、静かに始まったばかりだった。

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