とっても経験豊富な先輩
リビングの時計は、いつの間にか、かなり遅い時間を示していた。
二人のビールのグラスも空になって、リビングの空気は少しだけゆるんでいる。
「……もう、遅いし」
私はイスの背にもたれたまま、伸びをする。
「そろそろ、寝る?」
七海ちゃんが、ぴくっと反応した。
「……え? もう、そんな時間なんですね……」
そう言いながらも、どこか落ち着かない様子で、視線を泳がせている。
「……でも……『続き』が、まだ終わってないです」
「続き?」
私は首をかしげる。
「何の?」
七海ちゃんは、一瞬だけ言いよどんでから、意を決したみたいに顔を上げた。
「……ベッドの上の、続き、です」
私は、思い出したように軽く笑う。
「ああ……でもそれ、さっきしたでしょ?」
七海ちゃんが、あわてて言い返す。
「で、でも、あれは……! あれは、お家賃の……前払い、だって……!」
私は、その言葉に思わず吹き出しそうになる。
「……そういうのは、ちゃんと覚えてるのね」
「そ、それは……! だって、今日は……」
七海ちゃんは、もごもごと言葉をにごしながら、視線をそらす。
「まだ、もう少し……私に触れてほしかった、っていうか……それだけです」
語尾はどんどん小さくなっていって、最後はほとんど聞こえない。
私は、その様子を見て、少しだけ目を細めた。
「ふうん? そうやって、これまで、たくさんの女の子を泣かせてきたのね」
「ち、違います! そ、そんなこと……!」
七海ちゃんが、すっと顔を上げる。
それから、はっとしたように言い直す。
「こんなこと……こんなふうに、なったのは……遥さんが、初めてです」
私は、その言葉を聞いて、軽く眉を上げた。
「……ほんとに?」
「……はい、ほんと、です。だから……その……」
もじもじしながら、視線をさまよわせる。
「遥さんの方が……あんなに……慣れてる、感じだったから……」
「慣れてる?」
私は、その言い方がおかしくて、小さく笑う。
「つまり、女性経験がとってもありそうだ、ってこと?」
「い、いえ……! そう言いたかったわけじゃ……」
七海ちゃんは一瞬、言葉に詰まる。
「……でも……たくさんの女性と、そういうこと、してきたんじゃないかって……」
ギュッと、クッションを抱きしめる。
「……だから逆に……ちょっと、不安になっちゃって……」
その言葉に、私は一瞬だけ黙る。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……七海ちゃん」
名前を呼ぶと、七海ちゃんが、びくっと肩をすくめる。
「私も、よ。女の子と、こういうことをしたのは……あなたが、初めて」
七海ちゃんが、目を見開く。
「……え? ほ、ほんと……ですか……?」
私は、軽く肩をすくめる。
「ええ。意外?」
「……はい……正直……ちょっと……」
私は、少しだけ表情をやわらげて言った。
「そんなふうに思ってくれてたなんて、正直、うれしいわ」
「……そこで、よろこぶんですね」
七海ちゃんは、あきれたように言いながらも、口元がわずかにゆるんでいる。
「でも、遥さんに気持ちよくされたこと……複雑な気持ちだったんです」
「複雑?」
私は、からかうように首をかしげる。
「私のこと、すっごく手慣れてる、って感じてたから?」
「……そ、そういう言い方は……!」
七海ちゃんが、あわてて否定する。
「でも、遥さんも初めてだったのに、あんなに私が気持ちよくなったってことは……うれしいです」
その言い方が、あまりに素直で、私は、一瞬だけ言葉を失った。
「……ズルいわね。そんなふうに言われたら」
イスから立ち上がり、七海ちゃんの前に一歩近づく。
「『続き』をしなきゃ、って思っちゃうじゃない」
「……え! 続き、してくれるんですか!?」
七海ちゃんが、思わず前のめりになる。
その反応があまりに分かりやすくて、私は小さく笑った。
とはいえ、今すぐにでも抱き着いてきそうな七海ちゃんを、軽く手を振って制す。
「はいはい、でも、寝る準備をしてから、よ」
七海ちゃんは、あからさまに不満そうな顔をする。
「……ええー、今すぐ……してほしいのに……」
「こういうのは、順番を守ってもらわないと」
口をとがらせた七海ちゃんは、すがるような目をした。
「でも……気持ちが、もう……」
「どうせあなた、満足したら寝ちゃうでしょ?」
「……そうかも」
否定しきる自信はないのか、七海ちゃんの声は小さい。
「ね? ほら、新しい歯ブラシも出してあげるから」
さらっと言うと、七海ちゃんは、少し照れたように視線を落とす。
「ありがとうございます……私、ほんとに、ここに住まわせてもらえるんですね」
「まあ、歯ブラシ代は、あとでちゃんと、身体で払ってもらうから」
「……っ! がんばって……払います……」
私はまた、小さく笑い、七海ちゃんと一緒にリビングを出て、洗面所へ向かう。
並んで歩く距離が、これまでより少し近い。
「ほら」
洗面台の下から、新しい歯ブラシを取り出して、私は七海ちゃんに手渡す。
「ちゃんと新品だから」
「……ありがとうございます」
受け取る指先が、わずかに震えているのが分かった。
そっと遠慮がちに、七海ちゃんの指が、私の手に触れてくる。
一瞬だけ、ためらうみたいに。
それから、意を決したように――きゅっと、手をにぎってきた。
「……」
私は、何も言わずに、そのままにぎり返す。
それだけで、七海ちゃんの肩の力が、少し抜けたのが分かった。
洗面台の鏡に映る二人は、妙に落ち着いて見えた。
さっきまであんなにあわただしかったのが、ウソみたいに。
――今夜の私は。
七海ちゃんに、何度も快感を与え、ごはんを食べさせて。
歯ブラシどころか、下着まで用意してあげて。
(まるで、夫に必死で尽くす、
自分でもまた、少し笑ってしまう。
でも、ここまでしてしまう理由は、たぶん、単純だった。
七海ちゃんは、そのたびに全力で、感情を返してくれてきている。
――ここまで、まっすぐに反応してくる人は、いなかった。
「……行こ」
準備を終えてから、また手をつないで、私は言う。
「部屋に戻ろう」
「……はい」
七海ちゃんは、少しだけ強く、手をにぎり返してきた。
洗面所を出て、リビングを抜ける。
静かな夜の中で、足音と、手のぬくもりだけが、やけにはっきりしていた。
自分の部屋のドアを開けて、七海ちゃんを、また中へ招き入れる。
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