先輩は、先輩なんです
少しの沈黙のあと、私はグラスから手を離して、七海ちゃんを見た。
「……その『先輩』って呼び方、そろそろ少し考えましょうか」
軽い調子を装ったつもりだったけれど、七海ちゃんははっきりと首を振る。
「え? でも……先輩は先輩、じゃないですか」
きっぱり言い切られて、私は一瞬だけ言葉に詰まる。
それから、わざとらしく肩の力を抜いて、今度は少しだけ声のトーンを落とした。
「じゃあさ」
ほんの出来心みたいに、口角をゆるめ、思いっきり高い音にする。
「……
自分でも驚くくらい、かわいらしい声が出たと思う。
「――それは無理です!」
間髪入れず、七海ちゃんが即答する。
「即答なのね」
私は苦笑してから、わざとすねたように言った。
「自分は『七海ちゃん』って呼ばせるのに、私はダメなの?」
「それとこれとは、話が違います!」
七海ちゃんは真剣な顔で言う。
「私にとって、先輩は……先輩なんです」
その言い方が、まっすぐすぎて、私は、少しだけ意地悪になりたくなる。
テーブル越しに、そっと身を乗り出し、七海ちゃんの手の甲に、指先で、軽く触れた。
「……どうしても、ダメ?」
触れたのは一瞬。
でも、その一瞬で、七海ちゃんの肩がびくっと跳ねる。
「そ、そんなの……! ……許されないです……」
「ふうん? じゃあ、私はやっぱり……」
私は、わざとため息をつく。
「彼女だと思ってもらえてないのね。単なる遊び、だったのかしら」
「ち、違います!」
七海ちゃんは、あわてて顔を上げる。
「そ、そんなこと……!」
一瞬、言葉を探すみたいに口を閉じてから、ぽつりと続けた。
「……『さん』付けでも、いいなら……」
私は、その答えを聞いて、しばらく七海ちゃんの顔を見つめる。
それから、仕方なさそうに肩をすくめた。
「……仕方ないわね。それで我慢してあげる……今は、ね」
そして、にっこり笑う。
「じゃあ、今すぐ呼んでみて」
「……っ」
七海ちゃんは、ごくりと
一度、深呼吸してから――
「……は、遥……さん……」
声は小さくて、でもはっきりしていた。
私は、その様子を見て、思わず吹き出しそうになるのをこらえる。
「……なに、その顔」
抑えきれず、私はくすっと笑う。
「とても、かわいいわ」
七海ちゃんは、真っ赤になって、唇をとがらせる。
「……もう……」
でも、その声には、さっきまでの強さはなかった。
赤くなった七海ちゃんをしばらく眺めて楽しんだあとに、私は話題を切り替える。
「……まあ」
グラスに残ったビールを指で軽く揺らす。
「でも、会社の中では、これまで通りにするのよ」
「……え?」
七海ちゃんが、少し意外そうな顔をする。
「プライベートと仕事は、別」
そう、きっぱり言い切る。
「職場では、今まで通り『先輩』って呼んでね。変に距離が近いって思われるの、面倒でしょう?」
「……はい」
七海ちゃんは、ほっとしたようにうなずく。
「分かりました。それなら……助かります」
その反応に、私は小さく笑った。
「その顔、分かりやすいわね」
「だ、だって……!」
七海ちゃんは、あわてて言い訳する。
「会社でいきなり呼び方変えたら、絶対、
「ええ」
私はあっさり認める。
「なるわね」
「……やっぱり……」
「だから」
そこで、私は少しだけ声を落とした。
「その代わり、よ」
「……?」
七海ちゃんが、警戒するようにこちらを見る。
私は、テーブルに肘をついて、頬に触れ、さっきよりも、ほんの少しだけ近い距離にした。
「ベッドの上では……『遥……っ!』って、呼んでもらうから」
「――余計に無理です!!」
七海ちゃんが、反射的に叫ぶ。
「また即答するのね」
私は思わず笑ってしまう。
「だって……!」
七海ちゃんは、耳まで赤くしながら、必死に首を振る。
「それは……それは……! 心の準備とか、段階とか……そういうの、全部飛ばしてます!」
「そう?」
私は、首をかしげる。
「呼び方一つで、そんなに変わる?」
「変わります!」
これも、また即答だった。
「ぜんっぜん、違います……!」
七海ちゃんは、ギュッとクッションを抱え込む。
「名前だけで呼ぶなんて……それ……距離、近すぎです……」
私は、その言葉を聞いて、少しだけ表情を
「近いから、呼ぶのよ? 彼女なんでしょう?」
「……っ」
七海ちゃんは、言葉に詰まる。
「それに」
私は、からかうように続ける。
「仕事中は線を引いて、家では、ちゃんと甘える」
「その切り替えが……」
七海ちゃんは、小さくうめく。
「難しすぎます……」
「慣れよ、慣れ」
私は、軽く言ってから、にっこり笑う。
「少なくとも、『遥さん』って呼べたんだから、一歩前進なんでしょ?」
「……そんなの」
七海ちゃんは、しばらく黙り込んでから、小さくため息をついた。
「ずるいです」
「何が?」
「そうやって……できたことだけ拾って、評価するところです」
私は、その言い方が気に入って、素直にうなずいた。
「そういうところ、ちゃんと見てるのよ」
「……じゃあ」
七海ちゃんは、また少し照れて、視線を落とす。
「いつか……慣れたら……」
私は、その言葉を聞いて、目を細めた。
「うん。その『いつか』を、楽しみにしてるわ」
七海ちゃんは、何も言わなかったけれど、耳がまた少しだけ、赤くなっていた。
たかが、呼び名だけの問題。
でも、それは――二人の距離を、確かに測るものになっていく。
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