存在感のあるもの
脱衣所の向こうから、気配が変わったのを感じ取る。
それを合図にするみたいに、私は湯船から立ち上がる。
さっきまで身体を包んでいたお湯が、ゆっくりと離れていく感覚。
栓を抜くと、浴槽の底で水音が低く鳴り始めた。
その音に混じって、リビングの方から、ドライヤーの風の音が聞こえてくる。
(もう乾かし始めてるわね)
私は身体を拭き、さっきの部屋着に袖を通す。
髪は軽く水気を切ってから、タオルで包む。
浴室を出ると、さっきより少しだけ冷えた空気が肌に触れた。
そのままリビングへ戻る。
ソファの前で、七海ちゃんは床に座り込んでいた。
膝を立てて、その間にドライヤーを構え、鏡も見ずに髪を乾かしている。
真剣な横顔。
風に揺れる髪の先が、肩に当たって、また離れる。
私は、何も言わずに、その様子をしばらく眺めていた。
さっきまでの浴室とは違う、静かな時間。
やがて、ドライヤーの音が止まる。
「……終わりました!」
七海ちゃんは、少しだけ誇らしげに言って、立ち上がった。
「はい」
そのまま、私の方へドライヤーを差し出してくる。
「先輩も、どうぞ!」
「ありがとう」
受け取って、今度は私がスイッチを入れる。
視線を感じて、ちらっと目をやると、七海ちゃんは、さっきの私と同じように、黙ってこちらを見ていた。
「……なに?」
「いえ……」
少しだけ、口元をゆるめる。
「乾かしてる先輩、なんか……落ち着きます」
「そうなの?」
変な感想――とは思いながらも、別に悪い気はしない。
ドライヤーの音にまぎれて、ふっと息が抜ける。
十分に乾かしてから、スイッチを切る。
「……よし」
ドライヤーを片付けながら、私は思い出したように言った。
「そういえば」
冷蔵庫の方を見る。
「さっき、飲み損ねたビールがあるわね」
七海ちゃんの視線も、そちらに移った。
「……あ」
そして、少しうれしそうにうなずく。
「はい。いただきます」
私は冷蔵庫から、ビールの缶を取り出す。
キッチンの棚から、グラスを二つ、持ってくる。
薄手の、普段使いのもの。
缶を開けると、小さく乾いた音がして、白い泡が立ち上った。
私は傾ける角度に気をつけながら、二つのグラスに順番に注いでいく。
黄金色がゆっくり満ちていくのを見ていると、不思議と気持ちも落ち着いてくる。
「……さっきの、のぼせそうなのは」
私は、グラスを差し出しながら聞いた。
「もう、だいじょうぶ?」
七海ちゃんは、両手で受け取って、こくりとうなずく。
「はい! だいじょうぶ、みたいです」
そう言ってから、少し慎重に、一口だけ飲む。
「……おいしいです」
「それはよかった」
私も自分のグラスを持ち上げて、一口含む。
冷えた苦味が、身体の奥まで静かに染みていった。
少しだけ間を置いてから、私はグラスをテーブルに置く。
「ねえ、七海ちゃん」
「……はい?」
呼ばれて、背筋がぴんと伸びるのが分かる。
「もう、隠してることは……ないでしょうね?」
責めるような口調ではない。
でも、冗談とも言えない。
「……っ」
七海ちゃんは、あわてて首を横に振る。
「な、ないです! もう、ないです……!」
思わず念押しするみたいに、もう一度。
「……本当に?」
「はい……」
小さく、でも真剣にうなずく。
私は、その様子をしばらく見てから、静かに続けた。
「これからも、付き合いを続けたいなら、もう、ウソはつかないでね」
「……っ」
一瞬、七海ちゃんの表情が固まる。
それから、少し遅れて、意味をかみしめるように、目を見開いた。
「……え?」
「……どうしたの?」
「……つ、付き合い……?」
そのまま、勢いよく聞き返してくる。
「わ、私たち……付き合ってるんですか!?」
私は、思わずグラスを持ったまま、七海ちゃんを見る。
「……今さら?」
軽く首をかしげると、七海ちゃんは、ますますあわてた様子で口を開いた。
「だ、だって……その……はっきり、そういう話は……」
私は、ため息まじりに言う。
「あれだけ身体を、
七海ちゃんの耳が、みるみる赤くなる。
「それで、これから一緒に暮らすつもりでいるのに」
私は、視線を外さずに続けた。
「私のこと、いったい何だと思ってるの?」
「……っ」
七海ちゃんは、言葉に詰まって、グラスをぎゅっとにぎる。
「……そ、それは……そうですけど……」
それから、声が一段、小さくなる。
「……でも……私なんかが……先輩と……つ、つっ……」
視線は、完全に下を向いていた。
私は、その様子を見て、静かに息をつく。
少しだけ、声のトーンを落とした。
「七海ちゃん」
「……はい……」
「そうやって、自分を下に置く言い方。私は、好きじゃないわ」
七海ちゃんが、はっと顔を上げる。
私は、グラスを指で軽く回す。
「私が選んだんだから、それだけで、十分でしょ?」
言い切ると、七海ちゃんは何も言えなくなって、ただ黙ってうなずいた。
その様子を見て、私はふっと口元をゆるめる。
そして、ほんの少しだけ――意地の悪い笑みを浮かべた。
「……それに、これまでのところ」
七海ちゃんの視線が、恐る恐るこちらに戻ってくる。
「あなたの身体、すばらしいわよ?」
「……っ!?」
「私が期待してた以上、っていう意味」
七海ちゃんの顔が、一気に赤くなる。
耳まで染まって、言葉を失ったまま固まっていた。
「ま、まさか……」
ようやくしぼり出すように、言葉にする。
「……先輩って……私のこと……ずっと、そういう目で……?」
私は、即座に首を横に振る。
「違うわよ? 七海ちゃんが、昨晩、必死になって、『私を抱いて!』って、お願いしてきてからよ」
「……っ! わ、私……そ、そんな言い方じゃ……!」
七海ちゃんは、視線を泳がせ、両手で顔を覆いかけて、でも途中で止める。
「もっと……その……もう少し、かわいらしかった、かと……」
私は、その反応がおかしくて、くすっと笑った。
「そうね、確かに、かわいらしかったわ」
「……っ」
七海ちゃんは、また何か言いかけて――途中で、はっと口を閉じる。
「……そんな……私なんて……」
言い慣れた言葉が、喉まで出かかって。
でも、そこで思い出したみたいに、ぎゅっと唇を結んだ。
「……」
一瞬の沈黙。
それから、小さく。
「……えへへ……」
照れた笑いが、こぼれる。
私は、その変化を逃さずに、静かにうなずいた。
「それでいいわ」
グラスを置いて、まっすぐに七海ちゃんを見る。
「あなたは、かわいらしいし……私を満足させるだけの身体も、ちゃんと持ってる」
「せ、先輩……!」
七海ちゃんは、今度こそ勢いよく顔を上げた。
「だから! だから、そういう言い方、やめてください!」
抗議の声は必死だけど、どこか本気になりきれない。
その様子に、私は肩をすくめる。
「はいはい」
私は、七海ちゃんの抗議を軽く受け流すみたいに言ってから、グラスを置いたまま、何気ない仕草で両手の指をそっと動かした。
まるで、さっきのお風呂場での感触を、思い出すみたいに。
「でも、事実は事実よ?」
指先を、空中でわずかにすぼめる。
「だって、さっきもお風呂場で」
ちらっと七海ちゃんの胸元を見る。
「その、すばらしい身体を、ちゃんと味あわせてくれたものね」
「……っ!?」
七海ちゃんは、びくっと肩を跳ねさせた。
「あ、あれは……!」
あわてて言い返す。
「せ、先輩が、急に手を出してくるからです!」
「急に?」
私は、少し首をかしげてから、わざとらしく考えるふりをする。
「だって急に、あんなに存在感のあるものが、すっと近づいてきたら――」
肩をすくめる。
「びっくりするじゃない?」
「……っ!!」
七海ちゃんの顔が、さっきよりもさらに赤くなる。
「そ、そういう言い方……!」
声をひそめるようにして、下を向く。
「そういう表現されると……すごく……はずかしいんです……」
私は、その反応を見て、くすっと笑った。
「でも、イヤじゃ、なかったんでしょ?」
「……っ」
一瞬、言葉に詰まり、七海ちゃんは、視線をあちこちに泳がせたあと、小さくうなる。
「……もう……先輩って……ほんと、ずるいです……」
七海ちゃんは、頬をふくらませて、そっと視線をそらした。
リビングには、さっきよりも少しだけ軽くて、でも、より親密な空気が、確かに流れ始めていた。
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