追い出される、本当の理由

 私は、そっと七海ちゃんをこちらへ振り向かせて、もう一度、やさしく抱きしめなおした。


 背中に回した腕に、逃がさない程度の力を込める。

 責めるためでも、引き留めるためでもない。

 ここにいていいよと、ただ伝えるための抱擁ほうよう


「……ごめんなさい……」

 七海ちゃんの声が、かすかに震える。

 今にも泣き出しそう――そう思った次の瞬間、肩口が小さく揺れた。


 私は、その頭に手を置いて、ゆっくりとなでる。

「素直に言えて、えらいわよ」


 それだけで、七海ちゃんの堤防は崩れた。

「……ほ、ほんとに……追い出されるのは……ほんとなんです……っ。信じて……ください……」


 言葉の合間に、嗚咽おえつが混じる。

「そこまでウソだなんて、言ってないでしょ?」


 落ち着いた声で返すと、七海ちゃんは小さく首を振った。

「……そうです、けど……でも……もう……何も、信じてくれないかもって……」


「信じるわよ」

 そうして私は、ため息をつく代わりに、もう一度、頭をなでる。

「ウソをついた理由も……だいたい、わかるもの」


 その言葉を声にした瞬間、七海ちゃんは、とうとう声を上げて泣き出した。

 遠慮も、抑制も、全部投げ出したみたいに。

「……っ、うぅ……」


 私の胸元に顔を埋めて、しがみついてくる。


 ――涙で、私の服がじわじわと湿っていくのを感じる。


(……ああ、もう)

 私は心の中で苦笑する。


(このままだと、洗濯物が増えるわね……)

 だから、今は――


「どうせ、こんな感じでしょ」

 泣き声の合間に、私は淡々と言った。

「『掃除や片付けのルールを、何度言っても守れない人は、出て行ってもらう』――とか」


 七海ちゃんの身体が、ぴくっと震える。

 それから、こくり、と小さくうなずいた。

「……はい……」


「そんな理由、正直に言ったら」

 私は少しだけ、声にあきれた感じを混ぜる。

「私の家に、転がり込めないとでも思った?」


 その一言で、七海ちゃんは、完全に崩れた。

「……っ……先輩……!」


 そう呼びながら、号泣して、ギュッと抱きついてくる。

 遠慮という概念が、今度こそ消えていた。


 私は、天井を仰ぐ。


(これは……)


 ぬれた服の感触に、現実的な判断が追いつく。


(とにかく……お風呂に放り込んじゃおう)

 私は七海ちゃんの肩を軽くつかんで、身体を離す。


「ほらもう、仕方ないわね」

 やさしく、でも有無を言わせない調子で続ける。

「先に、さっぱりしてきなさい」


 七海ちゃんは、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、うなずいた。

 私はそのまま、脱衣所へ連れていく。

 そうしてさっと、七海ちゃんの部屋着を脱がせてしまう。


「先に入って、洗ってなさい。お話の続きは、そのあと」

「……はい……」


 まだ鼻をすすりながらも、ちゃんと返事をする。

 私は、浴室の扉を開けて、七海ちゃんに、中へ入るよううながした。

「ほら。あったかいから」


 そう言って、背中を軽く押す。

 扉が閉まる音と、お湯の気配が、静かに広がる。


 私は一人、脱衣所に残って、胸元がぬれた部屋着をハンガーにかけながら、深く息をついた。


(……まったく、泣きたいのはこっちよね)

 でも口元は、ほんの少しだけ、やわらいでいる。

 私はそのままリビングへ戻った。


 ちょうど、食洗器が動きを止めたところだった。

 扉を開けて、皿を食器棚へ戻していく。

 こうした作業は、それ自体は単純で、頭を使わなくていい。

 だからこそ、さっきの七海ちゃんの泣き顔が、ふっと浮かんでは消える。


(……ほんっとに、もう)

 最後の皿を戻し終えたところで、私はソファの脇に目をやった。


 ――置きっぱなしのままの、七海ちゃんのショーツ。


(自分で脱がせておいて、言うのもなんだけど……。こんなところに、ぽんと置いたままにしておくなんて。)

 さっきまでの切迫した空気を思い出すと、逆におかしくなってしまって、私は小さく笑った。


「もう……」

 ため息まじりにそれを持って、脱衣所へ戻る。


 浴室の方からは、シャワーの音が消えている。

 七海ちゃんが、そろそろ身体を洗い終えたんだろう――そんな雰囲気が、扉越しにも伝わってきた。


 私は、手にしていたショーツを、洗濯機の上にそっと置く。

 そうして、自分の部屋着に目を落とすと、胸元がまだ、少し湿っている。


 私は、それを脱いで軽くたたみ、下着といっしょに洗濯機の上に置いておく。


 浴室の扉を開けると、中は、湯気で少し白くなっていた。

 七海ちゃんは、湯船にかっている。

 私の気配に気づいた瞬間、びくっと肩が揺れ、そのまま、完全に顔を伏せる。


「……せ、先輩……」

 声も、視線も、上がってこない。


「そんなに縮こまらなくていいでしょ?」

 私は、なるべく普段通りの調子で言いながら、足元に気をつけて中へ入る。

「一緒に入るって話は、あなたが言い出したんだし」


 そう言うと、七海ちゃんは、こくりと小さくうなずいた。

「……はい……」


 でも、やっぱり顔は上げられないまま。

 私は、その様子を見て、少しだけ声をやわらげる。

「ゆっくり、あったまってなさい」


 そうして、私はさっと髪と身体を洗っていく。

 その間、七海ちゃんはずっと黙ったまま。

 静かに湯船へ、身体を沈めていた。


 私が洗い終わった様子を、確認したのだろう。

 七海ちゃんは、すっと足を曲げて、ひざを抱える。

 その空いたスペースに、私はそっと身体を入れていき、七海ちゃんと向かい合って座る。


 湯の音と、二人分の呼吸。

 それだけが、浴室を満たしていく。


 七海ちゃんは、相変わらず顔を伏せたまま。

 さっきより、肩の力は、ほんの少し抜けているように見える。


 湯気の向こうで、七海ちゃんの呼吸が、ゆっくりと整っていくのがわかる。

 私は、向かい合ったまま、何気ないふうを装って、その姿を眺めていた。


 ――どうしても、目がいく。


 鎖骨の下から、湯に沈みきらずにいるあたり。

 水面の揺れに合わせて、かすかに動く輪郭りんかく


「……やっぱり」

 考えるより先に、言葉がこぼれた。

「大きいわね」


 少しだけ、間が空いた。

「……え?」


 七海ちゃんは、最初、何のことかわからないという顔をしていた。

 それから、私の視線の向きをたどって――数秒遅れて、意味を理解する。


「っ……!」

 耳まで一気に赤くなって、あわてて腕を寄せる。

「そ、そんなに……じっくり見ないでください……!」


 声は小さいけれど、抗議の色ははっきりしていた。

 私は、思わず口元をゆるめる。


「だから」

 あくまで軽い調子で返す。

「一緒に入りたいです、って言ったのは、あなたでしょ?」


「……そ、それは……」

 七海ちゃんは言葉に詰まり、視線を湯の中に落とす。

「……そうです、けど……」


 私は、その様子を確かめるように、少しだけ声のトーンを落とした。

「じゃあ、私にそういう目で、自分の身体を見られるのは……イヤ、ってこと?」


 七海ちゃんの肩が、ぴくっと揺れる。


「……イヤ、じゃ……ないです……」

 間を置いて、続ける。

「……でも……はずかしい、です……」


 その答えに、私は小さく息をついた。

 あきれているわけでも、責めているわけでもない。


「安心しなさい」

 やわらかく、はっきりと。

「別にあなたを、追い出したりしないわよ」


 七海ちゃんが、そっと顔を上げる。

 まだ赤いけれど、さっきよりは、ちゃんとこちらを見ていた。

「……ほんとに……?」


「ほんとに」

 そう答えると、七海ちゃんは、少しだけ唇をかみしめてから、ぽつりと聞いてきた。


「……じゃあ、聞いていいですか?」

「どうぞ」


 ためらいながら、七海ちゃんがたずねてくる。



「……なんで……ウソだって……バレたんですか……?」

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