始まりと終わりのお願い

 ソファに横になったままの七海ちゃんを、私は眺めていた。


 呼吸は、もう落ち着いている。

 さっきまでの熱は、静かに身体の奥へ沈んで、表情には、ほっとしたような、でもどこか名残なごりしそうな色が残っていた。


 私は、やさしく声をかける。

「お風呂、入るでしょう?」


 七海ちゃんは、一瞬だけきょとんとしてから、こくりとうなずいた。

「……はい……」


 その声の調子も、もういつものものに近い。

 私は立ち上がりながら、軽く伸びをして言う。

「じゃあ、お湯、入れてくるわね」


 お風呂場の方向へ向かおうとした、そのとき。

 ふいに、私の袖口が、そっと引かれた。

「……先輩」


 振り返ると、七海ちゃんが、まだソファに座ったまま、私の腕に指先を添えている。

 力はほとんどなくて、触れているだけ。

 でも、その目が――少しだけ、上目づかいだった。


「なに?」

 私がそう聞くと、七海ちゃんは、ほんの一瞬だけ視線を泳がせてから、小さく言った。


「……その……キス……してほしい、かな……なんて……」

 私は思わず、目を細める。


「“ほしい、かな”じゃ、なくて?」

 そう返すと、七海ちゃんは、はっとして、少しだけ顔を赤くした。


「……して……ほしい、です!」

 その言い方があまりにも素直で、私はため息まじりに、七海ちゃんの前に戻る。


「ほんとに、もう……」

 そうつぶやきながら、あごに軽く手を添えて、顔を近づける。


 触れるだけの、短いキス。

 深くも、強くもない、ただ、確かめるみたいに、やさしく。


 唇が離れると、七海ちゃんの表情が、一気に明るくなった。


「……!」

 声には出さないけれど、全身で「うれしい」を表現しているのが、はっきりわかる。


「そんな顔されると、こっちが困るわ」

 そう言いながらも、私は、七海ちゃんの頭を軽くなでてから、離れた。

「じゃあ、今度こそ、お湯を張ってくるからね」


「……はい……」

 少しだけさみしそうに見送る視線を、背中に感じながら、私は浴室へ向かう。


 給湯器のスイッチを入れると、しばらくして、浴槽にお湯が張られていく。

 あたたかいお湯で満たされていくその音は、さっきからリビングに響いていた、洗濯機や食洗器とはまた違う、やわらかな響きになる。

 ついでにクレンジングや化粧水とかも出しておく。


 ちょうど洗濯機が洗濯を終え、手早くしていく。

 それからリビングへ戻ると、七海ちゃんは、ソファから起き上がって、きちんと座り直していた。

 私を見るなり、少しだけ躊躇ちゅうちょしてから、口を開く。


「……あの……先輩」

「ん?」


「……次からは……始まりのときにも……キス、してほしいな……って……」

 私は、足を止めて、七海ちゃんを見る。


「考えておくわ」

 軽くそう返すと、七海ちゃんは、いったんうなずいたものの――すぐに、少しだけ唇をとがらせた。


「……さっきは……始まりのとき、してくれなかったから……今……もう一回、してほしいです」

 私は、思わず、吹き出しそうになるのをこらえる。


「ほんとにあなた、遠慮えんりょって言葉を知らないのね」

 そう言いながらも、ことわる理由は、どこにもなかった。

 私は、もう一度、七海ちゃんの前に戻る。


 今度は、さっきより、ほんの少しだけ長く、それでも、あくまでおだやかに。

 唇が離れたあと、七海ちゃんは、満足そうに息をついた。


「……ありがとうございます……」

「どういたしまして」


 私はそう答えてから、七海ちゃんの前髪を、指先で軽く整えてあげる。


「ほら、今度こそ、お風呂に入りなさい」

「……はい」


 七海ちゃんは一度うなずいてから、浴室の方へ歩き出した。

 けれど、二、三歩進んだところで、ふっと足を止める。


「……あの、先輩」

 少しだけ振り返りながら、ためらうように口を開く。


「お風呂……広いですよね」

「そうね」

 何気ない返事をしながら、私は様子をうかがう。

 七海ちゃんは、意を決したように、一歩こちらへ戻ってきた。


「……二人でも、入れそうかな、って……思って……」

 言い終わるころには、声はすっかり小さくなっていた。


 私は立ち上がり、七海ちゃんのすぐ後ろに立つ。

 そして、驚かせないように、やわらかく腕を回して、背中から包む。


「どうしたの?」

 耳元で、落ち着いた声で聞く。


 七海ちゃんの身体が、ぴくりと反応する。

 でも、逃げようとはしなかった。

「……い、一緒に……入りたいです……」


 ほとんど、告白みたいな声。

「そう」


 私は、すぐには答えを出さず、背中から回した腕に、ほんの少しだけ力を込める。

「入ってあげても、いいけど……」


 そのまま、片手を腰のあたりへと移し、存在を伝えるようにそっと触れる。

 七海ちゃんが、息を詰める。


「……ほ、ほんとですか……?」

 振り返ろうとする七海ちゃんに、私はそのまま耳元で続けた。


「ねえ、その前に」

 声を少しだけ低くして、続ける。

「あなた、一つ……ウソ、ついてるでしょ?」


「えっ……?」

 七海ちゃんは、あわてて首を振る。

「そ、そんな……! 先輩に、ウソなんて……」


「ほんとに?」

 私は、腰に添えた手は少し下ろし、もう片方の手は、七海ちゃんの胸元へと上げていく。

 なだめるような、問いかけるような、そんな手の動き。


「……ほんと、です……」

 そう言いながらも、七海ちゃんの声が揺れていることは、はっきりとわかる。

 私は、その反応を見逃さず、ゆっくりと言葉を重ねた。


「シェアハウスを、出なきゃいけない理由……それ、本当は……違うんじゃない?」

 七海ちゃんの身体が、目に見えてこわばる。

 背中越しに、心臓の鼓動が早くなるのが伝わってきた。


 私は、そこで手の動きを止める。


「……ねえ。ほんとのこと、言わないなら……」

 わずかに身体を離して距離を取り、私は続ける。

「二度とこの続きを、してあげないわよ?」


 七海ちゃんは、しばらく黙っていた。

 唇をかみしめて、視線を落とし、何かと必死に向き合っている。


 それから――

 観念かんねんしたように、小さく、でもはっきりとうなずいた。



「……先輩の……言う通りです……」


 その声は、今まででいちばん、素直だった。

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