お家賃は、前払いで

 七海ちゃんの声は震えているけれど、逃げてはいない。

 私はその反応に、胸の奥が少しだけ熱くなり、七海ちゃんの手に、そっと触れた。


 指先同士が、軽く重なる。

 七海ちゃんが、息を止めるのが、伝わってくる。


「……でもね」

 そのまま、やさしく指をにぎる。

「お家賃は、前払いよ?」


「……え……?」

 七海ちゃんが、きょとんとする。

「……前払い……って……」


 私は、指を離さずに、少しだけ口元をゆるめる。

「今、ってこと」


 一瞬。

 七海ちゃんの理解が、追いつかない。

 それから、じわじわと意味がしみこんでいったように、顔が、みるみる赤くなる。


「……い、今……ですか……?」

 声が、かすれる。


 私は、それ以上は言わない。

 ただ、手に触れたまま、静かに七海ちゃんを見つめる。


「どうする?」

 答えをかすつもりはない。

 逃げ道も、ちゃんと残したまま。


 七海ちゃんは、しばらく黙っていた。

 けれど、やがて、私の手を、ぎゅっとにぎり返してきた。


「……ちゃんと……がんばります……」

 その一言に、全部が詰まっていた。

 私は、小さく息をはいて、視線を落とす。


「……ほんと、素直すぎ」

 そう言いながらも、手は離さなかった。

 七海ちゃんの手のぬくもりが、指先から伝わってくる。

「……じゃあ、決まりね」


 そう言って、私はイスから立ち上がろうとした。


「……あ、あの……先輩」

 七海ちゃんが、少しあわてたように、声を上げる。


「なに?」

「先輩の……チャーハンの残り……もらっても、いいですか?」


 思わず、きょとんとする。


「残り、食べたいの? 今??」

「……はい」


 七海ちゃんは、少し照れたように視線を落としながら続けた。

「せっかく、先輩が作ってくれた……おいしいお料理なので……もっと、ちゃんと味わいたくて……まだあったかい、今の内に……」


 その言い方が、なんだかくすぐったい。


「……ほんとに、おなか、すいてたのね」

 私は苦笑しながら、自分の皿を七海ちゃんの前に差し出した。

「ほら」


「……ありがとうございます……」

 七海ちゃんは、少し戸惑いながらも、スプーンを手に取る。

 一口目を口に運ぶと、耳まで赤くなって、もぐもぐと静かに食べ始めた。


「……さっき、急に、おなかがすいた、って言われたから」

 私は、飲み損ねた缶ビールを冷蔵庫へ戻し、洗い物を食洗器に放り込んでいきながら、何気なく言う。

「私のれ方に、不満があるのかと、思ったわ」


「ち、違いますっ……! と、とーっても気持ちよくって、でも」

 七海ちゃんが、あわてて首を振る。

「……それで、すごく……満足、したら……なんだか、急に……」


 また言葉を探すみたいに、言葉がほんの少し止まる。

「……おなか、すいちゃって……」


「……なるほどね」

 私は、「そういえば……昨夜も」と、ふっと息を吐き、七海ちゃんの方を見る。

「『抱いて、みませんか?』なんて言った後、結局、すごい勢いで、残りのお料理を食べてたものね」


「……私、安心すると……おなか、すくみたいで……」

 七海ちゃんは、ますます小さくなりながら、でもスプーンは止めない。

「それで、先輩にちゃんと言えて、安心したのと……あと、早く抱いてもらわなきゃ、ってなって……」


 もぐもぐの合い間に、七海ちゃんは器用に言葉を続けていく。

「だから、急いでいただきました!」


 その言葉が、胸に落ちる。

「……やっぱり、せっかち、なのね」


 私は、そう言いながらも、否定はしなかった。

 七海ちゃんは、残りのチャーハンをきれいに平らげて、スプーンをそっと置く。


「……ごちそうさまでした!」


 その声は、さっきより、少しだけ落ち着いていた。

 洗濯機の音が、相変わらず一定に響いている。

 テーブルの上は、もう空っぽ。


「……じゃあ」

 私は、七海ちゃんがカラにした最後の皿も、食洗器に入れてスイッチを入れ、もう一度、七海ちゃんを見る。

「始めましょうか?」


 七海ちゃんは、小さくうなずく。

「……はい」


 その返事は、静かだけど、しっかりしていた。

 私は、リビングの奥にあるソファを、あごで軽く示す。

「……とりあえず、そこに座って」


「……は、はい……」

 七海ちゃんは、少し緊張した面持ちでうなずき、言われたとおりソファに腰を下ろす。

 背もたれに深くは寄りかからず、ひざをそろえたまま、どこか居場所を測っているみたいな座り方だった。


 その様子を見て、私は一歩、距離を詰める。

 七海ちゃんが、はっと息を吸う。


 次の瞬間。

 私は、逃げ道をふさぐみたいに、そっと体重をかけて、七海ちゃんをソファに押し倒した。

「……っ」


 やわらかなクッションが沈み、その拍子に、七海ちゃんが着ていた部屋着のワンピースの裾が、大きくめくれる。

 七海ちゃんは、驚いたように目を見開く。


「せ、先輩……?」

 声が、少し裏返る。

「……さっきの続きは……また、ベッドで……じゃないんですか……?」


 その問いかけは、戸惑いにあふれていた。

 私は、七海ちゃんの上におおいかぶさる姿勢のまま、視線を落とす。


「違うわよ? これはね、お家賃の、前払いだもの」

 落ち着いた声で、ゆっくりと言う。

 七海ちゃんが、ごくりと喉を鳴らす。

「……さっき……あなたも、それでいいって、言ったでしょ?」


 七海ちゃんは、すぐには答えられなかった。

 視線が、私の顔と、ソファの背とを、行ったり来たりする。


「……で、でも……」

 小さく、ためらう声。

「……こんな……明るいところで……」


「無理なら、やめるわよ?」

 私は、あえて距離を詰めすぎず、静かに言った。

「ちゃんと、言っていいの。イヤなら、イヤって」


 七海ちゃんのまゆが、わずかに揺れる。

 それから、きゅっと唇を結んで。


「……イヤ、じゃ……ないです、けど……」

 消え入りそうな声。

「……ただ……ちょっと……心の準備が……」


「ふふ……ほんと、正直」

 思わず、息がもれる。

 私は、七海ちゃんの横に手をついて、体を少しだけ起こした。

「だいじょうぶ。これは……確認、みたいなものだから」


「……確認……?」


「そう、まずは……」

 目を合わせて、やさしく言いながら、あらわになった七海ちゃんの太ももに、そっと手を伸ばす。



「ちゃんと履いてるってことを、確かめるわね」

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