昨日からずっと、考えて

 胸の奥が、きゅ、と音を立てたように熱くなる。


 七海ちゃんは息を詰めたままで、言ってしまった言葉を自分で受け止めきれないように、私のスーツのすそをギュッとつまんでいた。


(こんなふうに言える子だったかしら……)


 私が何か返す前に、七海ちゃんはさらに言葉を重ねた。


「……先輩に、また触れてもらえるの……昨日からずっと考えてて……それでも、来る前は、怖かったのも、あるのに……来たら、もっと……」

「もっと?」


 問い返すと、七海ちゃんはかすかに肩をすくめた。


「……触れてほしくなって……胸のあたりが、変になって……だから……その……」


 言葉の続きは、あまりに小さく、息に溶けてしまいそうだった。

 けれど、ちゃんと届いていた。

 私は七海ちゃんの頬に添えていた手を、そっとゆるめて、やわらかく包み込む。


「……ほんとに、そんな気持ちで来たの?」


「はい。先輩の家に来たら……がんばろうって……先輩が……」

 七海ちゃんは、唇をきゅっと結んでから、視線を上げてくる。

「……先輩が、触れてくれる、って思うだけで……怖いのに、うれしくて……」


 のどが、ひとつ震えた。

 私は、七海ちゃんのほおを指先で軽くなぞり、息を整えるようにゆっくり呼吸した。


「じゃあ……先に、シャワーを浴びておいで? ゆっくりで、いいから」

「……はい」


 七海ちゃんが浴室に入るまで見届け、静かに扉が閉まるのを確認してから――

 私はリビングへ戻り、彼女のための部屋着を腕に抱え、そっと脱衣所に置いておく。


 湯気のわずかな余韻よいんをまとった空気が、ふわりと流れ込んできた。

 私は天井の照明を少しだけ落とし、間接灯の明かりだけがやわらかく広がるリビングで、そっと呼吸を整える。


 ほどなくして、足音が控えめに近づいてきて、七海ちゃんが姿を見せた。

 私が用意した、ワンピースの部屋着を身につけていて、肩のラインがわずかにあらわになっている。


「……先輩」


 声は小さく、けれどどこかくぐもっていて、胸の奥に響いた。

 私はゆっくりとほほえみ、ソファの横を軽く叩く。


「ここで、待っててね」

「……はい」


 七海ちゃんは、少しだけ緊張したかのような足取りで、ソファに腰を下ろした。

 ひざの上で指を重ね、胸元に視線を落としている。


 湯上がりの熱が、ほんのり頬に残っているのがわかる。

 私は軽くうなずき、浴室へ向かった。


 ――シャワーの音が落ちてくる間も、七海ちゃんがリビングにいるという事実だけで、胸の奥の鼓動が静かに速くなる。


(……本当に、来てくれたのね)


 そう思うたび、湯気よりも濃い熱が満ちていく。

 バスローブを羽織り、深く息を吸ってから、脱衣所の扉を開ける。


 リビングに戻ると、七海ちゃんは、うつむいたまま、指先をぎゅっと握りしめている。

 でも、私が足音を近づけると――顔をゆっくり上げた。


 その目は、少し赤くて、ぬれたように揺れていた。

 私は彼女の前に立ち、そっと右手を差し出す。


「……来て」


 指先に触れてきた七海ちゃんの手を、私はやさしく包む。

 七海ちゃんの手は、思っていたよりも少し冷たかった。

 でも、その奥にある体温が、ゆっくりこちらに伝わってくる。


 私はそのまま手を離さず、歩き出す。

 リビングを抜け、私の部屋の扉を開けると、昼間とはまったく違う、夜の空気がそこにあった。


 ベッドサイドのランプだけをつけて、やわらかな光を落とす。

 輪郭が溶けるような明るさの中で、白いシーツが静かに待っている。


 七海ちゃんは、足を一歩踏み出したまま、少しだけ息を止めたように見えた。

 私は何も言わず、先にベッドへ向かい、ゆっくりと腰を下ろす。


 そのまま、背中からシーツに身を預けた。

 視線を向けると、七海ちゃんは、立ったまま、私を見ている。


 その目には、迷いと期待が入り混じっていた。

 私は、シーツの上で軽く腕を伸ばす。

 それだけの仕草が、七海ちゃんの迷いを、ふんわりと打ち消したようだった。


 七海ちゃんは、一度小さく息を吸ってから、そっとベッドに近づく。

 ひざをつき、慎重に、私の隣へと体を横たえた。

 シーツがわずかに沈み、二人分の重みが、静かに馴染なじんでいく。


 距離は、ほんの数センチ。

 まだ触れてはいないのに、互いの呼吸が、はっきりわかる。


 私は、ゆっくりと体を傾け、七海ちゃんの肩に腕を回した。


 急がない。

 それでも、離さない。

 そのことをただ、確かめるように。


 七海ちゃんの体が、一瞬びくっと震えてから、そっとこちらに寄ってくる。

 額が、鎖骨のあたりに触れ、彼女の呼吸が、規則正しくなるのを感じた。


 私は、背中に回した手で、小さく、円を描くようになでる。

 それだけで、七海ちゃんの体から、少しずつ力が抜けていった。


 夜の静けさが、部屋の中をゆっくり満たしていく。


 ここにいる。

 隣にいる。

 それ以上でも、それ以下でもない――

 そんな確かな実感だけが、胸の奥に落ち着いていく。


 私は、七海ちゃんを抱いたまま、目を閉じた。

 この温度を、しばらくこのままにしておきたかった。


 私の手は、七海ちゃんの背中に置いたまま、しばらく同じ場所をなぞっていた。


 呼吸のたびに上下する、その小さな背中。

 なでるたび、確かにそこに、生きている温度がある。


 やがて――私は、その手をほんの少しだけ下へ動かした。

 意図的に、ゆっくりと。

 迷わせるくらいの速さで。


 七海ちゃんの体が、わずかに強張こわばる。

 けれど、離れようとはしない。

 それどころか、昨夜と同じように、ほんの少しだけ、全身でこたえているのがわかった。


 息が、浅くなる。

 背中の筋肉が、私の指先の動きを追うみたいに、小さく震える。

 その反応が、無意識のものだということが、かえって胸の奥を静かに熱くした。


 私は、手を止める。

 あえて、そこで。


 間が生まれる。

 夜の静けさが、いっそう濃くなる。


 その沈黙の中で、私は、七海ちゃんの耳元に、ほとんど息だけで言葉を落とした。


「……もっと、触れてほしい?」


 声は低く、問いかけというより、確認に近かった。


 七海ちゃんは、答えない。

 代わりに、私の胸元に額を寄せたまま、ほんの少しだけ、首を動かす。


 小さく。

 でも、はっきりと。


 うなずくことしか、できない――そんな仕草だった。

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