触れてほしい、できれば、早く

 静まり返った部屋に、乾いた電子音がふっと響いた。


 ――インターフォン。


 胸の奥に小さな電流が走る。

 わずかに息を吸い込み、私は玄関へ向かった。


 画面には、エントランス前に立つ七海ちゃんの姿が映っていた。

 落ちつかない様子で、両手を合わせている。


(……来たのね)


 軽く震える指でオートロックのボタンを押す。


 カメラ越しに七海ちゃんが少しだけ肩を上げ、小さくうなずいたのが見えた。


 自動ドアが開く音は聞こえない。

 けれど、彼女がこの建物へ足を踏み入れたという事実だけで、胸の奥に熱がゆっくりと満ちていく。


 私は玄関の明かりを少しだけ暖色に調整し、廊下の靴の位置を整えてから、静かに息を整えた。


 秒針が、やけに大きく聞こえる。

 七海ちゃんがエレベーターに乗る。

 扉が閉まる。

 ゆっくり上がってくる。

 その全てを、まるで自分の体の中で再生しているみたいだった。


 やがて――


 廊下の奥から、かすかな足音が近づいてきた。


 ぱた、ぱた、と控えめで、でもどこか急ぎ足で。

 七海ちゃんの歩き方だ、とすぐに分かる。


 心臓が、静かに跳ねた。


 玄関の前で、足音が止まる。

 短い沈黙。

 その中に、二人の緊張が同じ温度でにじんでいた。


 チャイムが、そっと鳴った。


 私はドアノブに手をかける。

 指先が、少し冷たい。

 けれど胸の奥は、深いところからあたたかくて。


 ゆっくりと扉を開けた。


「……先輩」


 そこに立っていた七海ちゃんは、さっき職場で見たはずのスーツ姿なのに、どこか違って見えた。

 頬が少しだけ赤くて、息がほんのり弾んでいて、視線は真っすぐなのに、どこか迷うように揺れている。


 こんな表情で、私の家の前に立っている七海ちゃんを見るのは、もちろん初めてで――

 その事実だけで胸の奥がふわりと熱をまとう。


「いらっしゃい、七海ちゃん」


 自然と、声がやわらかくなった。

 七海ちゃんは靴の先をほんの少し内側に寄せて、控えめに、しかし確かにうなずいた。


「おじゃま……します」


 私は少し身を引いて、彼女が入れるように玄関を開けた。


 七海ちゃんが一歩踏み込むと、夜の空気と、外に残っていた冷たい風の匂いが少しだけ室内に流れ込んだ。

 その瞬間、彼女の気配が、この部屋の空気にゆっくり混ざっていくのがわかる。


 七海ちゃんは靴を脱ぎながら、静かに息を吸った。


「……なんか、先輩の家の匂いします」

「そうね。落ちつく?」


「はい……なんか……安心します」


 その言葉に、胸の奥がやさしく揺れた。


「今日はゆっくりしていいのよ。緊張、してる?」


 七海ちゃんは、顔を上げる。

 そして少しだけ視線をそらして、ほんのりと頬に赤みを増した。


「……してます。先輩の家、来るの……ずっと、緊張してました」

「だいじょうぶよ。来てくれてうれしいわ」


 私はほんの一歩だけ近づいた。

 触れない距離。

 でも、手を伸ばせば触れてしまいそうな距離。


 私はほんの少しほほえみ、リビングへ向かおうと、玄関から続く廊下へと体を向けた。


 その瞬間だった。


 背中に、やわらかいものがそっと触れた。

 次の瞬間には、細い腕が私のウエストにぎゅっと回り込んでいた。


「……七海ちゃん?」


 驚いたというより、胸の奥にふわりと熱が広がる感覚のほうがゆっくり勝った。

 七海ちゃんは、私の背中に額を添えるようにして、小さく息を吸い込んだ。


「先輩……その……少しだけ、このままでもいいですか……?」


 声が、耳のすぐ後ろで震えていた。

 抱きつく腕に力がこもって、逃げ道を塞がれるような、でも不思議と心地よい温度が伝わってくる。


(来たばかりなのに……こんなふうに)


 胸の奥で静かに驚きが弾け、少し遅れて甘いものがじわりと広がっていく。


「ええ、いいわよ」


 できるだけ自然に返事をしたけれど、自分の声が少しだけ低く、やわらかくなっているのが分かった。


 七海ちゃんは、私の腰の部分へ指をそっとうずめるようにして、さらに身体を寄せてくる。

 その温度が、スーツ越しにもはっきりと伝わって、心臓がまた静かに跳ねた。


「……ほら、少しだけ、なんでしょ?」


 私は、七海ちゃんの方を向こうとして、振り返ろうとする。

 そんな動きを見計らったように、七海ちゃんがそっと顔を上げた。


 すぐ目の前に、七海ちゃんの気配がある。

 距離は触れ合う寸前。

 彼女の息が、かすかに頬に触れた。


 七海ちゃんの目は、まっすぐで、揺れていて、でも迷いを越えるような強さがあった。


 私の動きに合わせるようにして、七海ちゃんは――


 唇を寄せてきた。


 ほんの一瞬、夜の空気がきゅっと狭まる。


 触れたのは、かすかな温度だけ。

 それなのに、胸の奥が一気に熱を帯びる。


 七海ちゃんは息を止めたままのようで、その唇は、驚くほど慎重で、でも抑えていたものがゆっくりあふれ出すように、確かに私へ向かっていた。


 私は、逃げもしない。

 けれど、七海ちゃんのほうから近づいてきたのだという事実が、全身のどこかを静かに震わせていた。


 やわらかく触れて、離れる。

 呼吸が混ざる距離で、七海ちゃんが小さくささやいた。


「……このまま、また……いっぱい、れてくれますか?」


 その声音は、強がりでも、甘えでもなく、ただまっすぐで、ひどく素直で。

 私は視線を合わせるように、そっと七海ちゃんの頬に手を添える。


「……もう、いきなり、始めるの?」


 そうささやくと、七海ちゃんは一瞬だけ目を丸くした。

 けれど、すぐに伏し目になって、そのまつ毛の影がゆっくり震えた。


 そして、ためらいを押し出すように、小さな声がこぼれた。


「……はい。先輩に……触れてほしい、です。……できれば、早く……」

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