きっちり定時帰り
七海ちゃんが今晩、私の家に来る――
その事実を、ふと思い出すたび、胸の奥がそっと波打つ。
会議室を出て席へ戻った瞬間から、私の意識はずっと落ち着かなかった。
彼女の声、仕草、あのわずかな震え。
すべてが、まだ肌のどこかに薄く残っているようで。
けれど、浮わついた気持ちを抱えたままでは、逆に仕事に集中できなくなる。
だから私は、深く息を吸い、パソコンの画面に意識を押し戻した。
今日のタスクを一つ一つ、丁寧に積み上げるように処理していく。
メールの返信、進捗報告、資料のチェック。
いつもなら途中で一度は気がそれるのに、今日はむしろ背筋が自然と伸びた。
――きっちり定時で終わらせる。
そのために、余計な感情を引き出さないよう、淡々と自分を律した。
途中で、ふと視界の端に七海ちゃんのデスクが映る。
けれど、直視するとまた心臓が忙しくなってしまう。
だから反射的に、視線を戻した。
……それでも、気にしてしまう自分がいる。
時間が過ぎ、ようやく定時のチャイムが鳴った。
決めたとおり、全てのタスクはきれいに終わっている。
グレーのスーツの袖を整え、椅子から立ち上がった瞬間――
つい、七海ちゃんの方へ、目が向いてしまった。
七海ちゃんは、モニターに向かって静かに眉を寄せている。
どうやら、もう少しだけ残業するようだった。
私に気づいていないのか、あるいは気づかないふりをしているのか――
その横顔は、少しだけ引き締まっていて、でもどこか穏やかで。
いつも以上に、ていねいに仕事をしているようにも見えた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
(……がんばってるのね)
私はそっとカバンを手に取り、周囲に向けて軽く一礼した。
「お先に失礼します」
同じチームのメンバーが手を止めて振り返る。
「桐島さん、お疲れさまですー」
「来週、また相談いいですか?」
「気をつけて帰ってくださいね」
いつもと変わらない声が飛んでくる。
私は微笑みを返しながら、自然に七海ちゃんのほうへ視線をすべらせた。
一瞬だけ、七海ちゃんが顔を上げた。
視線が触れ合ったその刹那、彼女はほんのわずか――
気づくか気づかないかの、かすかな仕草で小さくうなずいた。
職場では決して特別な顔をしない。
その控えめさが、むしろ胸の奥にじんと響いた。
私はその一瞬をそっと胸にしまい、小さく
「じゃあ、お先にね」
できるだけ平静を装って声をかけ、デスクの間を通り抜ける。
オフィスの明かりを背に、エントランスへと歩き出した。
自動ドアが開くと、外の空気がふわりと頬をなでた。
夕方の風が少しひんやりしていて、熱っぽかった胸の奥にちょうどよくしみる。
七海ちゃんは少し残業。
私は先に帰って準備をする。
駅へ向かいながら、自然と歩幅が早くなる。
落ち着いているつもりなのに、気持ちはずっと静かに高鳴っていた。
――今晩、彼女が来る。
その事実一つだけで、世界が少し違って見える。
電車に乗り込むと、車内のざわめきが少し遠くに感じられた。
座席に腰をおろし、カバンからスマートフォンを取り出す。
――七海ちゃん。
名前を画面で見るだけで、胸の奥がまたそっと熱を帯びる。
私は自宅の位置と、マンションの部屋番号、それから一言だけ添えてメッセージを送った。
『気をつけて来てね』
送信ボタンを押したあと、ほんの一瞬だけためらった。
本当はもっと言いたいことがある。
けれど、文字にしてしまうと気持ちが先に走りすぎる気がして、私はそこで指を止めた。
電車がゆっくり揺れ始める。
窓の外はすでに薄暗く、夕方の街が少しずつ夜の顔へ変わっていく。
その景色が、今日の私の気持ちと妙に重なっていた。
駅に着くと、スーツの上着からふわりと外気が抜けていく。
家までの道は、いつもより短く感じた。
足が自然と早まっているのが、自分でも分かる。
マンションに着くと、私はすぐに照明をつけ、部屋の空気を軽く入れ替えた。
カーテンの隙間から入る夜風が、どこか背筋をそっとなでてくる。
七海ちゃんを迎える……そのための準備。
どこか緊張して、どこかうれしくて、自分の動きが少しぎこちないのがおかしい。
飲み物の用意をして、ソファのクッションを整え、部屋の中をぐるりと見渡す。
普段なら気にしない小さな乱れが気になって、私は何度も同じ場所を行ったり来たりした。
静かすぎる部屋の中で、スマートフォンの画面が光った。
――七海ちゃん。
少し息を整えてから、私はメッセージを開いた。
『先輩、今、電車で向かってます!』
たったそれだけの文章なのに、胸の奥がすぐに温かく広がっていく。
私はソファの背にもたれ、スマートフォンを軽く握りしめた。
うれしさと緊張が、静かに波のように押し寄せる。
(もう……向かってるのね)
部屋の中が急に生き生きして見える。
七海ちゃんがここに来る、というだけで、空気までもがどこかやわらかく変わる。
私はゆっくり立ち上がり、鏡の前に立つ。
髪を整え、スーツの襟を軽く直し、深く息を吸った。
指先が、少し冷たい。
けれど胸の奥だけは、静かに熱を帯びている。
七海ちゃんが、来る。
今日の夜、ここに。
私は玄関の明かりをつけ、もう一度部屋全体を見渡した。
静かな期待だけが、ゆっくりと満ちていく。
スマートフォンをそっと握り直した瞬間、また小さな通知の音が鳴った。
『駅に着きます!』
その文字を見た瞬間、心臓が、やわらかく跳ねた。
(……もうすぐだわ)
私は玄関に歩み寄り、七海ちゃんを迎えるために、静かに息を整えた。
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