ゆっくりと過ぎていく、二人の時間

 私は七海ちゃんを抱き寄せ、背中をやわらかくなでた。

 胸元に触れていた手は、決して急がず、大切にしたまま。


 そうしている間にも、部屋の時間はゆっくりと深く沈んでいく。

 七海ちゃんの身体のやわらかさは、バスローブ越しでも十分すぎるほど伝わってきて、それを味わうたびに、私の中の理性が、少しずつ、甘くほどけていく。


 七海ちゃんも、反応を抑えきれなくなっている。

 それでも、私の胸元にギュッとしがみついたまま、離れようとはしなかった。


 そうして、二人の体温だけが部屋を満たすように、ゆっくり、深く、時が過ぎていく。



 どれくらい抱き合っていたのか、もうわからなくなっていた。

 七海ちゃんの呼吸が少し落ち着いて、私の胸の上で静かな波みたいに上下する頃──ふと、テーブルの上の時計が目に入った。


「……そろそろ、時間ね」


 小さく告げると、七海ちゃんは、私の腕の中でぴくりと動いた。

 けれど、顔は上げない。

 さっきまでの震えが消えた代わりに、今は離れたくないという気持ちが、胸元にそっと押し寄せてくるようだ。


 私は、背中をやわらかくなでながら、彼女の肩に頬を寄せた。


「七海ちゃん……行きましょう?」


 それでも返事はなかった。

 ただ、ギュッと私のバスローブをつまむ指先だけが、小さく揺れている。


 やさしくうながすように、もう一度。


「ね、ほら、出ないと」


 すると──

 七海ちゃんが、か細い声で、胸のあたりに触れるようにささやいた。


「先輩……その……最後に、もう一度だけ、お願いします……」


 顔を伏せたまま、勇気をしぼった声。

 甘えるでもねだるでもなく、ただ気持ちの整理がつかないまま、離れがたいという、正直な願いがにじんでいた。


「しょうがない子ね」

 そう言いながら、私は七海ちゃんのあごにそっと指を添えて、上を向かせた。

 頬は赤く、まつ毛が震えている。


 私は、ゆっくりと唇を近づけ、触れるだけの、短いキスを落とした。


 離れようとして、身体をわずかに引いたその瞬間。


 七海ちゃんの手が私の肩をつかみ、勢いでも強引でもなく、ただ自然と引き寄せるように──


 今度は七海ちゃんのほうから、そっと唇を重ねてきた。

 ひどく控えめなのに、胸が熱くなるようなキスだった。


「……七海ちゃん?」

 そっと身体を離すと、七海ちゃんは息を整えられず、ゆっくりと目を伏せた。


「ごめんなさい……」

 しゅんとした声が、逆に胸をくすぐる。


「もう一度だけって、あなたが言ったのよ?」

 意地悪じゃなく、やわらかく。

 そう言うと、七海ちゃんはさらに頬を赤くした。


「……す、すみません……」

「ふふ。そんなに謝らなくていいわよ。でも──ほら、準備しないと」


 私は七海ちゃんの髪をそっと耳にかけ、肩を軽く押して立ち上がらせた。

 七海ちゃんはまだ名残惜しそうに私をちらりと見上げてくるけれど……その視線すら甘くて、胸に残る。


「着替えましょう。ね?」


 七海ちゃんは、小さくうなずいた。

 動き出した足取りはまだ少し頼りなくて、その様子まで愛しく思えてしまい、私は静かに息をついた。


 ──ホテルの休憩時間の終わり。

 扉を出る前の静かな余韻が、二人の間に深く落ちる。



 私たちはゆっくり離れ、ようやくベッドから降りた。

 七海ちゃんのバスローブのすそがふわりと揺れて、その下の白い脚が心細げに震える。

 まだ、完全に落ち着いたわけじゃない──そんな雰囲気が、呼吸の端々はしばしから伝わってきた。


 私は自分のバスローブを整えながら、「急ぎましょう」と軽く声をかけた。

 七海ちゃんも小さくうなずいて、自分の服へと手を伸ばす。


 鏡の前に立った彼女は、まだ頬にうっすら残る赤みを隠そうとするように髪をなでつけ、震える指でブラウスのボタンをとめていた。

 そのつつましい仕草が、かえってさっきまでの甘い空気を思い出させてしまう。


 私はスカートのファスナーを上げ、荷物をまとめながら、七海ちゃんの様子を横目で見守っていた。


 胸元に指を添えたときの反応──震え、呼吸、私の名前を呼ぶ声。

 その全部がまだ、私の指先の奥に残っている。


「……先輩、終わりました」


 七海ちゃんがそう言ったときには、もう完全に身支度が整っていた。

 それでも、指先は落ち着きなく裾をいじり続けている。


「じゃあ、行きましょうか。時間、もうギリギリよ」


 私はバッグを肩にかけ、ドアのほうに歩き出そうとした──その瞬間。


 七海ちゃんの手が、そっと私のジャケットの袖をつまんだ。


「……先輩」


 声は小さいのに、引き止める力だけはほんの少し強い。


 振り向くと、七海ちゃんは胸の前で手をぎゅっと組んで、迷って、ためらって、それでも決意を絞り出すみたいに口を動かした。


「時間……まだ、少しだけありますよね……?」

「ええ。数分だけなら」


 答えると、七海ちゃんは深呼吸して、目を伏せた。


「……その……最後に、時間ギリギリまで……抱きしめていて、ほしいです……」


 声は震えているのに、言葉は驚くほどまっすぐだった。

 ねだるようで、甘えるようで、だけど無理強いではなく──

 ただ、もう少しだけ欲しいという、素直すぎる願いが伝わってくる。


 胸がきゅっと痛むほど、愛おしさが込み上げた。


「おいで」


 私は両腕を、少しだけ広げた。

 呼んだその瞬間、七海ちゃんは吸い寄せられるように一歩踏み出し、私の胸の中へそっと飛び込んできた。


 抱きしめると、七海ちゃんの体温がすぐに広がる。

 さっきまで整えようとしていた呼吸が、また少し乱れていくのがわかる。

 頬が私の肩に触れ、細い指がスカートの布をそっとつまむ。


「先輩……もう少しだけ……こうしていたいです……」

「ええ。いいわよ」


 私は背中をていねいになでながら、七海ちゃんの額に頬を寄せた。


 さっきより短いはずの時間が、不思議と長く感じる。

 七海ちゃんは私に寄りかかるように力を抜き、呼吸の震えが落ち着いていくたびに、胸の奥に静かな甘さが積もっていく。


 たった数分。

 けれど、その数分がどれほど貴重なのか、

 二人とも痛いほどわかっていた。


「……そろそろ、本当に行かないと」


 そう告げると、七海ちゃんは肩に額を押し当てたまま、小さくうなずいた。

 名残なごり惜しさがその仕草の全部ににじんでいる。


「はい……。ありがとうございます、先輩……」


 その声が、胸に深く落ちた。


 私は彼女の背中をそっと押し、ようやく二人は離れた。

 扉の前で視線がまじわった瞬間──

 七海ちゃんがほのかな笑顔を浮かべる。


 その可憐かれんな表情が、静かな余韻となって胸に残ったまま、私たちは部屋を後にした。

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