これ以上したら、帰れなくなる
ホテルを出る際、私はさっと支払いを済ませた。
七海ちゃんはその隣で、支払いの間ずっと、気まずそうに指先をそわそわさせていた。
「いいのよ。今日は、私が誘ったんだから」
そう言うと、七海ちゃんはそれ以上は何も言えなくなったらしく、唇をぎゅっと結んで私のあとをついてくる。
自動ドアを抜けて外に出た瞬間、夜の空気が肌に触れた。
七海ちゃんの身体の
街灯の下を並んで歩きながら、私たちは駅へ向かった。
人通りはそこまで多くないけれど、七海ちゃんは私の半歩後ろを歩き、距離を離したくないとでもいうように、ときどきそっと、私のジャケットの
駅に近づくにつれ、ホームに入る電車の気配が空気を震わせた。
改札を抜けてホームへ上がる。
夜風がふっと吹き抜け、七海ちゃんの髪が揺れ、その香りが一瞬ふわりとただよってくる。
「……七海ちゃんは、逆方向よね?」
そう言うと、七海ちゃんはうつむいたまま、私の方をそっと見上げた。
その瞳が、さっき、ホテルの部屋で触れたときと同じ、甘い揺れを宿している。
「また明日。会社でね」
軽く手を振るように言うと──
七海ちゃんは、なぜか返事をしなかった。
ただ、まっすぐに私を見つめてくる。
「……どうしたの?」
問いかけると、七海ちゃんの指先が、私のジャケットの
少し震えていて、その動きに胸がきゅっと鳴る。
七海ちゃんは、勇気をしぼるように、唇を動かした。
「……先輩。最後に……もう一度だけ……抱いてほしいです……」
小さな声なのに、真剣で、まっすぐで。
駅の騒音の中でも、その願いだけははっきりと届いた。
「あなた……さっきも、最後って言ったでしょ?」
やさしくたしなめるように言うと、七海ちゃんはかすかに肩をすくめ、視線を落とす。
「……でも、ほしいんです……先輩……」
その言葉の甘さに、胸がゆるく溶ける。
「……しょうがない子ね」
周囲の人目が多くないことを確かめてから、私はゆっくり腕を伸ばし、七海ちゃんをそっと抱き寄せた。
七海ちゃんは息を吸い込むように胸を震わせ、私のジャケットの胸元に、そっと額をあずける。
さっきホテルで抱きしめたときよりは控えめなはずなのに、体温が触れた瞬間、心臓の鼓動が静かに跳ねた。
七海ちゃんの指が、私のジャケットをかすかに握る。
「……先輩……もっと……」
私は七海ちゃんの背中に添えていた手を、ほんの少しだけ上に滑らせる。
それだけで、七海ちゃんの呼吸が小さく乱れ、肩がわずかに震えた。
「……でも、ね。これ以上したら……あなた、帰れなくなっちゃうでしょ?」
できるだけやさしく、甘く。
まるで
七海ちゃんは、胸元に額を寄せたまま、かすかに喉を鳴らした。
「……先輩……」
その声が、ほんの微かに甘えていて、胸の奥が痛むほど温かくなる。
私は彼女の肩をそっと抱きしめ直し、髪にかかるあたりへ、ふうっと静かな息を落とした。
それだけで七海ちゃんの身体がまた小さく震え、指先が私のジャケットをさらに強くつまむ。
まつ毛がぬれたように震えていて、目の奥にもっとほしいという気持ちが、まだ残っている。
そのとき──
七海ちゃんの乗る電車がホームに滑り込んできて、風が足元を通り抜けた。
私は、七海ちゃんの背に添えていた手をゆっくり離した。
「行きなさい。乗り遅れるわよ?」
七海ちゃんは私を見上げ、唇をきゅっと結んでうなずく。
離れたくない、と言いたそうな目のまま、それでも一歩、電車のほうへ足を向けた。
名残惜しそうにもう一度だけ私を見上げてから、七海ちゃんは、そっと電車へ足を踏み入れた。
つり革に手を伸ばす仕草が、どこか頼りなくて、まだ私の体温を忘れられずにいるようにも見える。
扉が閉まる直前、七海ちゃんが小さく唇を動かした。
──先輩。
声は届かない。
でも、確かにそう呼んだように見えた。
そして扉が閉まり、電車は静かに動き出した。
七海ちゃんの姿が少しずつ遠ざかり、やがてホームの向こう側へと溶けていく。
私は息をひとつ吐き、手を胸元に添えた。
さっきまで七海ちゃんを抱いていた腕が、まだうっすらと温かい。
そのとき、反対のホームに、私の乗る電車が滑り込んできた。
金属のきしむ低い音が、夜のホームの空気を震わせる。
私は足を向け、ゆっくりと乗り込んだ。
ドアが閉まると同時に、電車はゆるく揺れながら走り出した。
シートに腰を下ろし、窓に映る自分の顔をぼんやりと眺める。
ふと、無意識に指先が頬へ触れた。
──七海ちゃんが、あんなふうにしがみついてきた。
背中に触れたときの震え。
胸元に額を寄せたまま、息を整えられずにいた様子。
袖をつまむ小さな指。
そして、あの「抱いてほしい」という声。
思い返すたびに、胸の奥がゆっくりと温かくなる。
もちろん、私はこれまで、誰とも触れ合ったことが全くなかったわけじゃない。
そういう行為をした経験が、なかったわけでもない。
──けれど。
七海ちゃんとのさっきのそれは、全く別の種類だった。
これまでの経験は、欲望を向けられる側で、求められるまま応じる側。
──そんな距離が、どこか冷えたまま残っていた気がする。
体は触れ合っても、心の芯は触れなかった。
でも、七海ちゃんは違った。
欲望というより、求める気持ちそのものが、そのまま腕の中で震えていた。
私を必要としているという感情が、手のひらの温度から、伝わってきた。
あれは、ただの行為ではない。
欲望より、もっと深くて、もっと脆くて、もっとあたたかい何か──
言葉にまだできない種類のもの。
電車の揺れに合わせて、七海ちゃんの指先の震えがふいに思い出される。
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
──どうして、あんなに素直に私を求められるのかしら。
まるで問いかけるみたいに、窓の外の光が流れていく。
夜の街がゆっくり後ろへ遠ざかり、ホームのアナウンスが少しずつ大きくなってきた。
気づけば、電車は私が降りる駅へ近づいていた。
ブレーキがかかり、車両が揺れて、速度が徐々に落ちていく。
私は立ち上がり、ドアの前に移動した。
扉が開き、冷たい夜風が頬に触れる。
私は改札へ向かって歩き出した。
さっきまで腕の中にいた七海ちゃんの体温を、まだそのまま、抱えたまま。
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