それは甘く、そして深い

 胸元でバスローブの端をにぎりしめたまま、一ノ瀬さんが、小さく息を吸った。

 その声音は震えているけど、瞳は迷っていない。


「ベッドでは……私の名前――七海ななみで、呼んでほしいんです。先輩に……そう、呼ばれたくて」


 言い切ったあと、彼女ははずかしそうに、視線を落とす。

 でも、隠しきれない期待の熱が、ほおににじんでいた。


 私はそっと彼女の手を包んだ。

「……わかったわ。じゃあ、七海ちゃん?」


 その瞬間、一ノ瀬さん――ではなく、七海ちゃんは肩を小さく揺らし、息をこぼすようにほほえんだ。

「……はい……」


 その一言が、うれしさの色を、まるごとにじませていた。


 私は、七海ちゃんの手を軽く引いて、立ち上がる。

 ベッドのほうへ歩きながら、振り返って、やさしく視線でうながした。

「……七海ちゃん」


 七海ちゃんは、胸の前で手をきゅっとにぎり、照れを抱えたまま一歩ずつついてくる。

 ベッドのそばに来ると、私は軽くシーツを整え、七海ちゃんの肩にそっと触れた。


 言葉にしなくても伝わる程度の、やわらかい合図。

 七海ちゃんはわずかに頬を染めながら、静かにベッドへ腰をおろし、そのまま横になる。

 シーツがふわりと波打ち、彼女の体がそっと沈む。

 私は少し時間をかけて照明を落とし、七海ちゃんの隣に身をすべり込ませた。


 近づくだけで、彼女の呼吸の高さが伝わる。

 手の甲が触れ合うたび、小さな震えがひらりと走る。


 七海ちゃんは目を閉じ、胸の前で指をからめる。

 緊張と期待がひとつの温度になって、薄い空気に満ちていく。


 私はその手の上に、自分の手をそっと重ねた。

 指先が触れ合った瞬間、七海ちゃんの肩の力が少し抜ける。


 それだけで、十分だった。


 しばらくの間、部屋には照明の淡い光と、二人の静かな呼吸だけが重なり合っていた。


 七海ちゃんの手を包んだまま、私はゆっくりと呼吸を整えた。

 すぐ隣にある彼女の温度が、今まで感じたどんな距離よりも近い。


 七海ちゃんはまだ目を閉じている。

 けれど、さっきより呼吸が浅くて、胸元がかすかに上下していた。

 緊張だけじゃない。期待が静かににじんでいる。


 私は小さく名前を呼んだ。

「……七海ちゃん」


 その声に、七海ちゃんのまつ毛が小さく震え、ゆっくりと目をひらいた。

 薄い灯りが落ちているせいで、彼女の瞳は、夜の水面みたいにやわらかく揺れて見える。


「先輩……?」

 ささやきに近い声。

 不安と、それ以上のものが混ざっていた。


 私は手を離さずに、ほんの数センチだけ彼女に身を寄せた。

 七海ちゃんは驚いたみたいに肩をすくめたけれど、逃げようとはしなかった。


 むしろ、少しだけ近づいてきた。

 その気配が、私の胸の奥を揺らす。


 私は、彼女の頬に軽く触れた。

 七海ちゃんの呼吸が一瞬止まり、

 目が泳ぐように揺れ、また私に戻ってくる。


「……怖くない?」

 そうたずねると、七海ちゃんは小さく首を振った。


「……少しだけ。でも……先輩となら……だいじょうぶです」

 声は震えているのに、言葉には一欠片ひとかけらの迷いもなかった。

 そのまっすぐさに胸が熱くなる。


「じゃあ……ゆっくりね。急がないから」

 私がそう言うと、七海ちゃんの唇がわずかにほころんだ。

 力を抜くように、そっと目を閉じる。

 その表情は、触れてもいいですよと、告げているようだった。


 私は七海ちゃんの頬に添えた手を、耳の後ろへそっとすべらせる。

 そのたびに、彼女の呼吸が小さく跳ねる。

 距離は、あとほんの少し。


 七海ちゃんのまつ毛が震えるたび、その震えがこっちまで伝わってきそうで、胸が苦しい。

 触れる前から、もう心臓がうるさい。


 名前を呼ぶほどの声も出なくて、私はただ、目で問いかける。

 七海ちゃんは、かすかにあごを引き、かすかにうなずいた。

 それだけで、十分だった。


 私は息を整え、視線を唇へ落とす。

 どちらが先かなんてわからないほどの、ほんのわずかな動きで、七海ちゃんとの距離が縮まっていく。


 そして――

 ふわ、と。

 花びらが触れ合うみたいな、ほんの一瞬の、やさしいキス。


 七海ちゃんは一度目を開きかけて、それからまた閉じた。

 触れたところが熱を帯びて、そのまま広がっていくみたいだった。


 私はすぐに深くしようとはせず、ただ、軽く重ねるだけのキスをもう一度。

 それだけで、息が詰まるほど甘い。


 離れると、七海ちゃんは頬を染めたまま、胸の前でギュッと手をにぎりしめていた。


「……先輩……」

 名前を呼ぶその声が、さっきよりずっと近い。

 私は笑って、七海ちゃんの髪を指でそっとかきあげた。


「……かわいいね、七海ちゃん」

 その一言に七海ちゃんは、息をもらすように震えた。

 それだけで、胸がきゅっと締めつけられるほどいとしい。


 七海ちゃんの頬に触れていた指先を、私はそっとすべらせた。

 そのたびに、七海ちゃんの呼吸がかすかに揺れる。

 彼女の瞳はうるんだまま、まっすぐ私だけを映していた。


「先輩……」

 呼ばれただけなのに、胸がきゅっと締め付けられる。

 私はもう一度、ゆっくりと身を寄せた。


 さっきまでの、軽いキスとは違う。

 今度は、七海ちゃんの唇のやわらかさをちゃんと確かめるような、少しだけ深い重なり。


 七海ちゃんが小さく息を吸うのがわかった。

 驚きと、うれしさと、ためらいが全部入り混じったような音。


 私は即座に押しつけたりはしない。

 ただ、彼女の反応を受け止めるだけの、やわらかい重ね方。


 ──そのはずだったのに。

 七海ちゃんの指が、そっと私のバスローブの端をつまんだ。

 ほんのわずかな仕草。

 でも、ためらいながらも、もう少しと求めているのが伝わる。

 一瞬だけ、彼女の指先が布を引くように動いて、それが胸の奥にまで響いた。


 七海ちゃんはすぐに手を離そうとしたけれど、私はその手を軽く包んだ。

「……七海ちゃん?」


 ささやくと、七海ちゃんは視線を泳がせ、頬をさらに赤く染める。

「ご、ごめんなさい……つい……」


 謝る声の奥に、かすかな期待がまじる。

 その気配が、私の中で何かを優しくほどいていく。


「だいじょうぶ。……うれしかったよ」

 そう言うと、七海ちゃんは目を伏せたまま、もう一度そっと唇を寄せてきた。

 今度は彼女のほうから。


 触れた瞬間、私の心臓が跳ねる。

 七海ちゃんは不器用で、でも精いっぱいで、

 緊張した呼吸のなか、ほんの少しだけ深めるようにしてくる。


 温度がゆっくり溶け合って、名前を呼ぶこともできないまま、私たちはふわりと息を合わせた。


 どれくらいそうしていたのか、わからない。

 けれど、離れたときには、七海ちゃんの胸元がわずかに上下していた。


「……先輩……」

 今度の声は、甘さでほどけていた。

 その呼び方だけで、また抱きしめてしまいそうになる。


 だけど、七海ちゃんが、私より先にそっと手を伸ばした。

 私の手へ──指先が重なる。

 不安そうで、でも逃げる気はまったくない、そんな触れ方で。


「先輩……あの……」

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