先輩、一つだけ、お願いが
フロント脇のパネルには、照明の落ち着いた部屋や、かわいらしいインテリアの部屋が並んでいた。
私はその中から、できるだけシンプルで、余計な飾りのない部屋を選んだ。
今の私には、派手さより静けさのほうが欲しかったからだ。
部屋のカギを手に取ると、一ノ瀬さんが小さく息をのんだのが分かった。
歩幅を合わせてエレベーターに乗り、二人だけの密閉された空間に入る。
その途端に、心臓の音が耳の奥に近くなる。
扉が開く。
カーペットの感触と、控えめな香り。
部屋の扉を閉めると、まるで外の世界が完全に途切れてしまったようだった。
「……
名前を呼んだだけで、彼女の肩がわずかに跳ねる。
不安なのか、緊張なのか、それとも期待なのか──全部が混ざっているように見えた。
私はゆっくりと彼女の腕をとり、そのままそっと、胸元へと抱き寄せた。
強くではなく、逃げようと思えば逃げられるくらいの力で。
でも、一ノ瀬さんは逃げなかった。
背中が少し震えていて、私はその震えごと、抱きしめる。
「……先に、シャワー浴びてくる?」
私がそう言うと、一ノ瀬さんはぱっと顔を上げて、あわてたように首を振った。
「い、いえっ! そういうのは……女の子が先に、ですから……!」
「女の子って……あなたこそ女の子でしょ」
一ノ瀬さんの頬が、一瞬で赤くなる。
ぽっと染まっていくその色が、照明に照らされ、やわらかく揺れた。
「そ、それは……っ。で、でも……! と、とにかく先に入ります!」
逃げるように浴室へ向かう背中を見送りながら、私は小さく笑った。
緊張しているくせに、どこかかわいげがあって、放っておけない。
浴室の扉が閉まった後、私はベッドの端に腰を下ろす。
ほんの少し、深呼吸をした。
──誠と同棲を始めてから、こういう空気になることなんて、全然なかったな。
思い返すと、胸の奥に淡い痛みがよぎる。
いつからか、触れ合う時間も会話も減っていった。
ケンカがあったわけじゃない。
ただ、心がゆっくり離れていくのを、互いに止められなかっただけ。
シャワーの音が止まる。
静寂が戻ったあと、浴室の扉がゆっくり開いた。
蒸気がふわりと広がり、その中から一ノ瀬さんが現れる。
髪がほんの少しだけぬれ、肩に沿ってわずかに水滴が落ちている。
バスローブのすそをぎゅっと握っていて、その姿が妙に
「……あの。先輩……?」
私は気づけば、目を離せずにいた。
驚いたように一ノ瀬さんが身じろぎする。
「そ、そんなに……じろじろ見られたら……はずかしいです……」
「……でも、今夜は、一ノ瀬さんを、好きにしていいんじゃなかったの?」
言った瞬間、一ノ瀬さんはバスローブの胸もとをきゅっとにぎりしめ、足元まで真っ赤になった。
「そ、それは……! ち、ちがっ……いや、違わないんですけど……っ」
しどろもどろな様子が、余計にかわいい。
「……私も、浴びてくるわね」
そう告げると、一ノ瀬さんはこくりとうなずいた。
その表情は、緊張をどうにか押し隠そうとしているみたいで、見ているこちらまで胸が熱くなる。
私はタオルを持ち、そっと浴室へ向かった。
扉に手をかける瞬間、背中に一ノ瀬さんの視線を感じる。
振り返ると、彼女はまっすぐに私を見ていて──
その目は、たしかに私を選んでいた。
浴室に湯気が満ちていく。
温度が上がるほどに、さっきの一ノ瀬さんの姿が、頭のどこかでじんわりと鮮明になっていった。
──あんなふうに、あの子を見たのは初めてだ。
職場ではいつも明るくて、真っ直ぐで、少し危なっかしくて。
後輩として守ってあげたい、という気持ちが強かった。
でも、さっきバスローブをぎゅっと握っていた細い指や、少しだけぬれた髪越しに見えた首すじが、妙に
(……私より小柄なのよね、やっぱり)
そう意識してしまった自分に、胸の奥が微妙にざわつく。
肩の丸みも、浴衣から見えた鎖骨の細さも、抱き寄せたときに触れた体温も──どれも、いつもより近い。
(胸は……私より、少し……いや、だいぶ……)
思わず視線を伏せ、水に流してごまかす。
比べるつもりなんてなかったのに、自然と思い浮かんでくる自分に、あきれそうになる。
(落ち着きなさい、私)
シャワーを頭から浴び、呼吸を落ち着ける。
だけど、思考は意外と簡単には静かにならなかった。
これまで、女性とこういう流れになることを、一度も想像したことがなかった。
タオルで体を拭きながら、小さくため息をつく。
誠のこと、別れ話の後の
そのすぐ後に、一ノ瀬さんが「私を抱いてみませんか?」と言ったこと。
すべてが重なって、揺さぶられている。
バスローブを羽織り、静かに扉を開けた。
部屋の中には、やわらかい照明だけが灯っている。
一ノ瀬さんはソファに座り、ひざの上で両手をきゅっと組んでいた。
私が戻ったことに気づくと、ぱっと顔が上がる。
「先輩……」
その声は、さっきより少し小さくて、どこか不安げだった。
私は彼女の隣に、腰を下ろした。
ソファがゆっくりと沈み、一ノ瀬さんの肩がびくりと動く。
それでも、ためらいがちに、そっと身体ごと私に寄りかかってくる。
触れた部分から、ほんのり温かい熱が伝わる。
けれど、その温度の奥では、彼女の身体がかすかに震えていた。
「……ほんとに、好きにしていいの?」
問いかけると、一ノ瀬さんは唇を噛み、でも覚悟を決めるようにこくりと頷いた。
「だ、だいじょうぶです……。私……がんばります……!」
がんばります、なんて言い方が、なんだか
「がんばるのは……私の方じゃないの?」
思わず苦笑すると、一ノ瀬さんの耳まで真っ赤になる。
私自身、女性とのこういう近さは初めてで、戸惑いをどう扱えばいいのかも分からない。
でも──震えているこの子を落ち着かせることなら、できる。
私はそっと腕を伸ばし、一ノ瀬さんの背中へ回した。
肩甲骨のあたりがこわばっていて、触れた指にかすかな緊張が伝わる。
それでも、逃げる気配はなかった。
むしろ、一ノ瀬さんは息を吸い込み、ゆっくりと私にもたれかかる力を強めてきた。
私はその背中を、落ち着かせるように、ゆっくりなでる。
大きくも小さくもない、ちょうど抱えやすい大きさ。
指の下で、震えは少しずつおだやかになっていく。
「……一ノ瀬さん」
名前を呼ぶと、彼女の手がぎゅっと私のバスローブのすそをにぎった。
その仕草が、一番まっすぐで、ウソのない気持ちに見えた。
しばらく、二人の呼吸だけが静かに重なった。
背中をなでる私の手に合わせるように、一ノ瀬さんの肩の力がゆっくり抜けていく。
震えが止まると、代わりに体温の方がはっきりと感じられてきた。
胸の近くに彼女の額が触れて、そのやわらかい重さに、私自身の心臓の音が妙に大きく響く。
(……誰かを抱きしめるのが、こんなに久しぶりだったなんて)
気づいた瞬間、胸の奥がじんわりと痛んだ。
誠との最後の数ヶ月は、こんなふうに触れ合うことなんてほとんどなかった。
温度を確かめるような抱擁も、寄りかかる重さも、感情を預け合う沈黙も。
──恋人だった、はずなのに。
今、腕の中にいるのは、後輩で。
関係性も、気持ちの在りかも、まったく違うはずなのに。
それでも、この温度は確かに私の胸の空洞に触れてきて、静かに息を吹き込むようだった。
「……先輩」
小さく呼ばれ、見下ろすと、一ノ瀬さんが顔を上げていた。
頬はまだ赤く、瞳の奥に迷いと決意が混ざっている。
その視線がまっすぐすぎて、私は思わず息をのみそうになる。
「どうしたの?」
聞き返すと、一ノ瀬さんはぎゅっと私のバスローブをにぎり直し、ほんの少しだけ身を寄せて──
「先輩、一つだけ、お願いが、あります……」
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