私を、抱いてみませんか?
「……え?」
「今週、ずっと気になってました。普段より、ちょっとだけ……目が
そんなふうに見られていたのか、と驚いた。
今日も一日中、仕事のことで頭がいっぱいだったはずなのに、彼女はちゃんと気づいていた。
「あはは……隠せて、なかったのね」
そう返すと、│一ノ
そうしているうちに、料理がいくつかテーブルに並ぶ。
湯気の立つグラタン、オイルの香るアヒージョ、トマトのサラダ。
食べ始めるけれど、お腹は空いていたはずなのに、なんとなく
一ノ瀬さんはそれに気づいて、そっと声を落とした。
「……もしよかったら、聞きますよ?」
その言葉に、胸の奥がずきりと痛む。
仕事の後、少し飲んで、誰かに優しくされて、そんな瞬間にだけ、心の
「……先週、彼氏と別れたの」
ほんの少し、息を吸ってはくみたいに、自然に言葉が出た。
一ノ瀬さんの箸が止まり、瞳が真っ直ぐ私に向く。
ただ、痛みをそのまま受け取ろうとするような、そんな目だった。
「……そんなことが、あったんですね」
「生活のすれ違い、かな。仕方ないことなんだけど……まだ実感が、追いついてなくて」
言いながら、私はグラスを持ち上げ、そのまま一気に飲み干していた。
そんな私を見つめる一ノ瀬さんの表情が、ゆっくりと変わった。
決意とも、衝動とも言えない。
けれど確かに、踏み込む勇気をはらんだ目。
「……
「なに?」
一ノ瀬さんはほんの一瞬だけ
「私でよければ……」
呼吸が止まった。
「なあに? なぐさめて、くれるの?」
私が軽い感じでそう聞くと、一ノ瀬さんは首を振った。
そして、はっきりと言う。
「――私を、抱いて、みませんか?」
その言葉は、この狭いテーブルの上で、妙なほど澄んで響いた。
冗談に聞こえない。
アルコールの勢いでもない。
まっすぐで、ぶつかってくるくらいの熱がある。
「……一ノ瀬さん? どうしたの、急に」
「こんな……はしたない言い方しかできなくて、すみません。でも」
一ノ瀬さんは、少しだけ私の方へ身を寄せ、声を落とす。
「私を、好きにしていいです。先輩が望むように、自由に使ってください、私の……身体を……」
胸の奥がざわざわと熱くなる。
言葉の意味は強いのに、その目はどこか震えていた。
怖くないわけがないのに、必死に向かってきている。
私が返事できないまま、店の空気だけがゆっくり流れた。
それでも食事を終えると、一ノ瀬さんが会計を済ませて、二人で店を出る。
外に出ると、夜風が
店の照明よりも暗い街灯の下で、一ノ瀬さんは少しだけ肩をすぼめながら私を見上げた。
その瞳には、まだ先ほどの熱が、消えずに残っている。
一ノ瀬さんは、夜風にさらされた髪をそっと押さえながら、私を見上げていた。
その視線は、さっき店の中で向けられたものと同じ──いや、むしろもっと熱を帯びているように思えた。
鼓動がうるさい。
一ノ瀬さんの言葉を、まだ胸の中で持て余していた。
――抱いて、みませんか?
あの一言だけが、街のざわめきよりも鮮明に残っている。
私は、一ノ瀬さんの瞳からそらさずに言った。
「……じゃあ、行きましょう」
一ノ瀬さんの肩が、小さく揺れた。
驚きでも、安堵でもなく──覚悟が追いついた時のような、深い息の震えだった。
「……はい」
その返事は、かすれるほど小さかったのに、私の胸にははっきり落ちてきた。
私は一ノ瀬さんと並んで歩き出す。
少し先の信号を渡れば、ホテル街に続く細い通りがある。
仕事帰りのスーツ姿のまま、後輩の……女の子と、こんな夜道を歩くなんて。
現実感が薄い。けれど、向こう見ずな衝動で歩いているわけではない。
──一ノ瀬さんの言葉が、それだけ本気だったように聞こえたから。
一歩後ろをついてきていた一ノ瀬さんは、気づけば自然と、隣に並んでいた。
手はつながない。
でも、
通りに入ると、看板の色が変わる。
飲食店の暖色とは違う、やわらかいネオン。
淡いピンクや、静かな青、それに、ぼんやりした白。
一ノ瀬さんは一瞬だけ、息を飲んだようだった。
だけど逃げる気配はない。
唇をきゅっと結んで、私の歩幅に合わせてついてくる。
「……怖く、ないの?」
気づけば、そんな言葉が口から滑り落ちていた。
一ノ瀬さんは、私ではなく、前方の明かりを見たまま答える。
「怖いです。でも、それより……」
ゆっくりこっちを向く。
「先輩と一緒にいたい気持ちの方が、ずっと、強いです」
その言葉は、夜気よりも熱かった。
私は歩みを止め、一ノ瀬さんのほうへ体を向ける。
一ノ瀬さんの瞳に、ネオンがさざ波みたいに映り込む。
「……一ノ瀬さん」
名前を呼ぶだけで、一ノ瀬さんの喉が鳴るのが分かった。
それだけで、気持ちの温度が伝わった。
この子は、勢いで言っているわけじゃない。
誰かに代わりを求めているわけでもない。
──ちゃんと私を選んで、ここに立っている。
私は再び歩き出す。
一ノ瀬さんが、迷わずその横に並ぶ。
やがて、ひときわ落ち着いた外観のホテルの前に足を止めた。
派手すぎず、静かすぎず、選び慣れているように思われもしない──そんなたたずまいの建物。
一ノ瀬さんが、無意識のように私の袖をつまんだ。
ほんのわずか。
でも、それだけで胸が揺れる。
「ここにしましょうか」
私が言うと、一ノ瀬さんはゆっくりとうなずいた。
自動ドアが開く。
やわらかい香りと、外とは違う静けさが流れ出してくる。
一ノ瀬さんの肩が小さく上下し、深く息を吸った。
そして──
そのまま中へと、足を踏み入れた。
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