あの瞬く星のような君の心音が、燃え尽きてしまったとしても

雨愁軒経

プロローグ ~あの瞬く星のように~

 一ノ瀬いちのせなぎは、夕方の空が好きだった。

 空色のキャンパスを真横に引き裂くように、地平線から飛んでくる茜色のレーザービーム。その直視するには眩しすぎる光の底からこっそり滲んでくる夜の群青。

 どんな色でもあり、どんな色でもない。そんな曖昧さが自分に似ている気がした。


 中学の入学式の帰り道に川沿いの土手から見上げた数十分のプラネタリウムに魅入られて、いつしか凪は、スケッチブック片手にここへ通うようになった。

 土手の斜面にみょーんと伸びる影が一つ増えたのは、いつ頃からだっただろう。


「朝焼けとは違うの?」


 同じクラスの長谷堂はせどう乙花いつかが、凪の構えるスケッチを覗き込みながら訊ねてきた。

 彼女の伸ばした黒髪がスケッチブックの端に垂れ、夜の色にグラデーションを追加する。


「あっちは、なんかやだ。白いし、薄いし、眩しいだけ」

「ふうん」


 乙花が上体を起こしたことで絵から色が去ってしまったのが寂しくて、凪は追い縋るように顔を上げた。

 もうすぐ沈み切るだろう夕日に向かって立った乙花は、やわらかな風に髪を押さえる。


「眩しいのは、いいと思うけどなあ」


 髪が乱れるのは気にするのにスカートを翻すことは憚らないちぐはぐなノリで振り返った彼女は、にっと歯を見せて笑った。


「スターみたいで!」


 上手いこと言ったでしょと勝ち誇る視線が鬱陶しい。朝焼けにスターだなんて、彼女は自分で言っていることが破綻していることに気づいていないのだろうか。

 けれど図星だったから、邪険にもできなかった。


「だからだよ」

「うん?」

「朝焼けの後は空に雲がかかってしまうけれど、夕焼けの後は空に星が輝くから……だよ」


 だんだん気恥ずかしくなってきて、言葉が尻すぼみになる。こんな時間だというのに頬が熱かった。

 夜は暗いだけじゃない。それに気が付いたのが目の前の女の子のおかげだと伝えるのはさすがに癪で、恥ずかしさと一緒にスケッチブックに隠す。

 何秒かの間があってから、ようやく乙花が発した「ふうん」は、まるでこちらを見透かしているような、鼻歌にも似た響きがあった。


「あっ、一番星!」

「違うよ。もうみっつよっつ出てるよ」

「いいの! 私が最初に見つけた星だから一番星なの。一番明るいし!」


 きっぱりと言い切った背中は、一等星のようにきらめいて見えた。

 ふと、その星がゆらりと瞬いた。それが乙花が祈るように手を組み、ふうっと息を吐き出したのだと気付いて、凪は慌ててスケッチブックのページを捲った。


 遠くで走った電車の音が過ぎ去り、辺りが静まり返る。


 乙花が息を吸う音だけが、咲いた。


「~~~♪」


 即興のメロディが空気を震わせていく。以前彼女から聞いた話では、鼻歌とハミングとでは全くの別物らしい。

 軽やかに澄んだ鈴の音のようでいて、凛とした音叉の音のように強い。きよらかな歌声が、やがて星という天使を引き連れて訪れるだろう夜の帳を賛美するように響き渡っていく。


 数フレーズの聖歌チャントを歌い上げた乙花が、そっと祈りの手をほどいた。


「どうよ、一番星の歌!」

「そんなドヤ顔で言われると、せっかくの雰囲気が台無しだよ」

「細かいこと言わないの。どうなの?」

「短い」

「短いぃ?」


 先ほどの楚々とした姿はどこへやら。乙花はどういう了見だと言わんばかりにガニ股で肩をいからせながら、坂を上がってくる。

 目の前に仁王立ちをした閻魔様へ白状するように、凪は神妙にスケッチブックをひっくり返して見せた。


「描き切れなかった」


 線を走らせた程度にしか描き込めていないシルエット。辛うじて人型、よしんば少女ということまでは判るだろうけれど、それが風吹乙花であることは誰も気づけないだろう。


「フル尺あったら、描ける?」

「えっ?」


 てっきり「私はこんなんじゃなーい!」などと怒られることを予想していた凪にとって、それは思いがけない質問だった。


「流行りの歌みたいに、三、四分。それくらいなら描ける?」

「……わからない。でも、これよりはずっとマシなものには仕上げられると思う」

「じゃあ、仕上げ切れるようになって」


 隣にすとんと腰を下ろした乙花は、もうすっかり夜の色が深くなった空の中からさっきの『一番星』を探し出すと、指差した。


「あの瞬く星のように、私は必ず歌手になるから。凪は歌ってる私の絵を描いて」

「ライブ会場でスケッチブック持ってるヤツとか、不審者じゃん」

「関係者席で描けばいいよ」

「二階席とかでしょ。遠すぎない?」

「あーもう、あー言えばこー言う!」


 頬を膨らませてジタバタと暴れた乙花は、星を指差していた人差し指をたたんで、代わりに小指を立てると、こちらの手をひったくるように取って強引に捻じ込ませてきた。

 細くてひんやりとした指が、するりと絡まって、きゅっと締まる。


「約束!」

「……お、おう」


 真っ直ぐに見つめてくる瞳には銀河のように闘志の炎が渦巻いていて、吸い込まれるようだ。

 しかし目を逸らそうと抵抗する必要はなかった。だって、最初から描くつもりではいたんだから。



 けれど次の日から、乙花は学校に来なくなった。

 担任によれば家庭の事情ということらしい。昨夜のゆびきりからたった一夜で、一体どんな事情があるというのだろう。担任を問い詰めても、それは教えてもらえなかった。


 その日から凪は、夕方の空を見るのが大嫌いになった。

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