第10話「金色の瞳に宿る傷」
商会の在庫管理の一件以来、リオード様は何かと僕に仕事の相談をしてくれるようになった。
もちろん、僕に専門的な知識があるわけではない。だけど、前世での常識や、消費者としての素朴な視点が、彼の凝り固まった思考を解きほぐすきっかけになることが時々あった。
彼は僕のことを「幸運の女神ならぬ、幸運の番だな」なんて言って、からかうように笑った。
公私ともに、僕たちの絆は日に日に深まっていく。
彼の愛情は少しも陰ることなく、むしろ、ますます深く、甘くなっていくようだった。
僕は、彼の腕の中で眠り、彼のキスで目覚める日々に、すっかり慣れていた。これ以上の幸せはない、と本気で思っていた。
だけど、彼の心の奥底に、まだ僕の知らない深い闇が横たわっていることに、僕は気づき始めていた。
時々、彼は悪夢にうなされることがあった。
苦しそうな息遣い。魘されるように、何かを呟いている。
そんな夜、僕は彼が目を覚ますまで、その広い背中を優しく撫で続けることしかできなかった。
「……裏切り者」
ある夜、彼の唇から、はっきりとその言葉が漏れたのを聞いた。
憎しみに満ちた、凍えるような声だった。
僕が心配して声をかけると、彼ははっと目を覚まし、ひどく汗をかいていた。そして、夢の内容を聞こうとする僕から、逃げるように背を向けてしまうのだ。
「なんでもない。気にするな」
そう言って、彼は何も話してはくれなかった。
彼が、あれほどまでにオメガを嫌っていた理由。
番になった今も、心のどこかで、僕のことを完全に信じきれていないのかもしれない。
その可能性に思い至ると、胸がちくりと痛んだ。
彼の過去に、何があったのか。彼を縛り付けているものは、何なのか。
それを知らなければ、僕たちは本当の意味で、一つにはなれないような気がした。
意を決した僕は、リオード様が商会の会合で出かけている昼下がり、この屋敷で一番の古株である執事のゼラールさんに話を聞くことにした。
ゼラールさんは、先代の頃から黒狼商会に仕えている、白髪の物静かな老人だ。いつも僕のことを、本当の孫のように優しく見守ってくれていた。
「ゼラールさん。少し、お伺いしたいことがあるのですが」
僕がおずおずと切り出すと、ゼラールさんは「なんでございましょう、カイ様」と穏やかに微笑んだ。
「……リオード様の、過去についてです。なぜ、あの方は、あんなにオメガを……信用していなかったのでしょうか」
僕の問いに、ゼラールさんの表情が、わずかに曇った。
彼はしばらく黙っていたが、やがて、重い口を開いた。
「……それは、先代様……リオード様の、お父上のことが原因でございます」
ゼラールさんは、静かに語り始めた。
リオード様の父、先代当主は、非常に情に厚い人物だったという。そして、一人の美しいオメガの男性を、側近として、そして愛人として、深く深く愛していた。
リオード様も、幼い頃はそのオメガによく懐いていたらしい。
だが、そのオメガは、先代当主の信頼を裏切った。
ライバル商会と通じ、黒狼商会の重要な機密情報を次々と横流ししていたのだ。その結果、商会は莫大な損害を被り、倒産の危機に瀕した。
信頼していた相手からの裏切りに、先代当主は深く心を病み、心労がたたって、若くしてこの世を去ってしまった。
「当時、まだ若かったリオード様は、たった一人で、傾きかけた商会を立て直さなければなりませんでした。それは、想像を絶するような苦労であったと存じます」
ゼラールさんの声は、悲しみに震えていた。
「以来、リオード様は誰にも心を許さなくなり……特に、ご自身が信じ、慕っていたオメガに裏切られた経験から、オメガという存在そのものを、深く憎むようになられたのでございます」
話を聞き終えた僕は、言葉を失った。
想像していたよりも、ずっと深く、痛ましい傷。
彼が一人で背負ってきたものの重さに、胸が締め付けられるようだった。
僕と出会った頃の、あの冷たい金色の瞳。あれは、彼の心が張り巡らせた、精一杯の鎧だったのだ。
その夜、ベッドに入っても、リオード様はなかなか寝付けずにいた。
書斎から戻ってきた彼は、どこか上の空で、窓の外の月をぼんやりと眺めている。
僕は、そっとベッドから起き上がると、彼の背後から、その広い背中を優しく抱きしめた。
「……カイ?」
驚いたように、彼が僕の名前を呼ぶ。
「僕は、ここにいます」
僕は、彼の背中に頬を寄せた。
「僕は、絶対にあなたを裏切りません。何があっても、あなたのそばにいます」
「……」
「だから、もう一人で苦しまないでください。あなたの痛みも、悲しみも、僕に半分、分けてください」
僕の言葉に、彼の体が、わずかに震えた。
ゆっくりと、彼は僕の方に体を向けた。
月明かりに照らされた彼の瞳は、悲しいくらいに揺れていた。まるで、迷子の子供みたいな、頼りない瞳。
こんな顔の彼を見るのは、初めてだった。
「……信じても、いいのか」
か細い声で、彼が問う。
「お前も、いつか俺の前から、いなくなってしまうんじゃないのか」
僕は、彼の頬に手を添えると、その瞳をまっすぐに見つめ返した。
「信じてください」
そして、彼の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
それは、慰めでも、同情でもない。僕の、ありったけの愛情を込めたキスだった。
僕の温もりが、彼の凍てついた心を、少しでも溶かせるようにと祈りながら。
長いキスの後、彼は、僕の胸に顔を埋めて、子供のように、ただ黙って僕にしがみついていた。
もう、悪夢にうなされることはないだろう。
彼の金色の瞳に宿っていた深い傷を癒せるのは、世界でただ一人、僕だけなのだから。
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