第9話「小さなアイデアと大きな一歩」

 リオード様の番としての日々は、驚くほど穏やかで、満ち足りていた。

 彼の溺愛ぶりは日に日に増していき、僕はその深い愛情に包まれて、少しずつ、自分に自信を持てるようになってきていた。

 奴隷だった頃に染み付いた卑屈さや怯えは、彼の優しさによって、薄紙を剥がすように消えていった。

 カフェ・ルーンの仕事も順調で、僕が考案する新しいお菓子は、次々と王都の話題をさらっていく。


 ただ、そんな幸せな毎日の中で、僕は小さなもどかしさを感じ始めていた。

 リオード様は、僕を「何も心配しなくていい」と、まるで壊れ物のように大切に扱ってくれる。それはもちろん嬉しいけれど、僕は、ただ守られているだけの存在でいたくなかった。

 彼が商会の当主として、どれだけの重圧と戦っているかを知っていたから。

 僕も、彼の力になりたい。お菓子を作ること以外で、何か、彼の役に立てることはないだろうか。


 そんなことを考えていたある日、僕は執務室で、リオード様が大きな帳簿を前に頭を抱えているのを見かけた。

 彼の眉間には深いしわが刻まれていて、珍しく、疲労の色が濃くにじんでいる。


「リオード様、どうかしたんですか?」


 僕が声をかけると、彼は顔を上げて、少しだけ困ったように笑った。


「ああ、カイか。いや、なんでもない。気にするな」


「でも、すごく疲れた顔をしています」


 僕が彼の隣に腰を下ろすと、彼はため息をつきながら、帳簿の一箇所を指さした。


「……最近、取り扱う商品の種類が増えすぎてな。倉庫の在庫管理が追いついていないんだ。そのせいで、配送にも遅れが出始めている」


「在庫管理、ですか」


 その言葉に、僕は前世の記憶を手繰り寄せた。

 僕が働いていたのは、小さな書店だったけれど、そこでもバーコードを使った在庫管理システムがあった。もちろん、この世界にそんな便利なものはない。

 だけど、もっと基本的なことで、何か改善できることがあるかもしれない。


「あの、もしよかったら、僕にもその帳簿、見せてもらえませんか?」


「お前が?商いのことなど、わからないだろう」


「そうかもしれません。でも、何か気づくことがあるかも……」


 僕が真剣な顔で言うと、リオード様は少し驚いたようだったが、すぐに「わかった」と帳簿を僕の前に押し出してくれた。

 帳簿には、びっしりと商品の名前と数字が並んでいた。

 商品の入荷日、出荷日、在庫数。それらが、ただ羅列されているだけ。これでは、どの商品がどこにあって、どれだけ残っているのかを把握するのは、至難の業だ。

 これなら、僕にもできることがあるかもしれない。


「リオード様。倉庫の中は、どういう風になっているんですか?商品の置き場所は、決まっていますか?」


「いや、特に決まってはいないな。空いている場所に、次々と運び込んでいるだけだ」


「それじゃあ、駄目です」


 僕は、思わず強い口調で言ってしまった。

 リオード様は、きょとんとした顔で僕を見ている。

 僕は慌てて言葉を続けた。


「えっと、つまり、まず倉庫の中を整理するんです。商品の種類ごとに、置く場所を決めるんです。『布地はここの棚』『香辛料はあちらの棚』というように」


「……ほう」


「そして、棚ごとに番号と名前を書いた札をつけます。帳簿にも、その商品をどの棚に置いたのかを記録するんです。そうすれば、誰でもすぐに、目的の商品を見つけられます」


「……なるほど」


「それから、在庫が一定の数より少なくなったら、すぐに発注をかける、というルールを決めるんです。そうすれば、品切れを防げます」


 僕は、夢中で話していた。

 前世では当たり前だった、在庫管理の基本的な考え方。いわゆる「整理・整頓」と「見える化」だ。

 僕が話し終えると、リオード様は腕を組んで、しばらくの間、難しい顔で黙り込んでいた。

 やっぱり、素人が口出しするべきじゃなかっただろうか。彼の気分を害してしまったかもしれない。

 僕が不安になっていると、彼は、ふ、と息を漏らすように笑った。


「……カイ。お前は、本当に面白いな」


「え?」


「そんなこと、考えたこともなかった。だが、お前の言う通りだ。実に合理的で、無駄がない」


 彼は立ち上がると、僕の頭を優しく撫でた。


「すぐにやってみよう。お前のアイデアを、試させてくれ」


 その日から、リオード様主導のもと、黒狼商会の倉庫大改革が始まった。

 彼は僕のアイデアを元に、使用人たちに的確な指示を飛ばし、巨大な倉庫の中は、数日で見違えるように整理整頓されていった。

 結果は、すぐに現れた。

 今まで半日かかっていた商品のピッキング作業は、数十分で終わるようになった。在庫の数も正確に把握できるようになったことで、無駄な発注がなくなり、配送の遅れもなくなった。

 作業効率は、劇的に改善されたのだ。


 報告を受けたリオード様は、その夜、僕を執務室に呼んだ。

 彼は、僕をまっすぐに見つめると、心からの笑顔で言った。


「ありがとう、カイ。お前のおかげだ」


「そんな……僕は、ただ思いついたことを言っただけで」


「その『思いつき』が、この商会を救ったんだ」


 彼は僕の手を取ると、その甲に、優しく口づけをした。


「俺は、とんでもない宝物を手に入れたらしい。お前は、美味い菓子を作るだけじゃない。俺が気づかないことにも気づける、鋭い視点を持っている」


 彼の言葉が、じわりと胸に染み渡る。

 役に立てた。僕が、彼の力になれた。

 その事実が、たまらなく嬉しかった。


「お前は、俺の最高のパートナーだ」


 パートナー。

 その言葉の響きが、僕の心を満たしていく。

 僕はもう、ただ守られるだけの存在じゃない。

 この人の隣に立って、同じ未来を見つめることができる。

 その確信が、僕に大きな勇気を与えてくれた。

 僕の成り上がりは、甘いお菓子だけが武器じゃない。この、前世の記憶こそが、僕を彼の隣にふさわしい存在へと押し上げてくれる、最大の力になるのかもしれない。

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