第6話「嫉妬の影と守るべき人」
カフェ・ルーンの成功は、王都中に瞬く間に広まった。
『黒狼商会のカフェに行けば、今まで誰も食べたことのない、魔法のような菓子が食べられる』
そんな噂が広まり、店は連日、開店前から長蛇の列ができるほどの盛況ぶりだった。
僕の立場も、それに伴って少しずつ変化していった。
以前は僕を侮蔑の目で見ていた厨房の料理人たちも、今では「カイ先生」なんて呼んで、僕に教えを乞うてくるようになった。
もちろん、全員がそうではない。
僕の成功を快く思わない者たちがいることも、僕は知っていた。特に、僕が来る前から厨房で働いていた、古株の料理人たちだ。
彼らは、僕がリオード様に媚びを売って今の地位を得たと、思い込んでいるらしかった。すれ違いざまに、わざと聞こえるように嫌味を言われることも少なくない。
胸は痛むけれど、もう昔のように、ただ怯えているだけではいられなかった。
僕には、守るべきものができたから。
リオード様が作ってくれた、この大切な居場所を。僕が作るお菓子を、楽しみにしてくれているたくさんのお客さんを。
僕は、僕にできることを精一杯やるだけだ。
そう心に決めて、毎日お菓子作りに没頭した。
***
そんなある日のことだった。
その日は、貴族の婦人たちを集めたお茶会で出す、特別なケーキの注文が入っていた。
何日も前から試作を重ねた、自信作のチョコレートケーキだ。
仕上げの飾り付けをしようと、僕は冷蔵室に保管しておいたケーキを取り出した。
そして、息を飲んだ。
「……あ」
完璧な出来栄えだったはずのケーキが、見るも無惨に崩れていたのだ。
側面に、誰かが故意に指を突っ込んだような跡がある。美しかったはずのチョコレートクリームは、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。
血の気が、さあっと引いていくのがわかった。
どうしよう。お茶会の時間は、もうすぐそこまで迫っている。今から作り直しても、到底間に合わない。
「ひどい……誰が、こんなことを」
震える声で呟いた時、背後に人の気配がした。
振り返ると、そこに立っていたのは、古株の料理人の一人、ルドルフだった。彼は、僕がここに来てから、特に僕のことを目の敵にしていた男だ。
「どうした、カイ先生。自慢のケーキが台無しじゃないか」
ルドルフは、口元に意地の悪い笑みを浮かべていた。
彼がやったんだ。直感的にそう思った。
「……あなたが、やったんですか」
「さあな。だが、お前が失敗したことには変わりない。これで当主様からの寵愛も終わりだろうな。奴隷上がりが、いい気になりおって」
悔しくて、唇を噛みしめる。
でも、今、彼とここで言い争っている時間はない。
どうにかして、この状況を乗り越えなければ。
僕は必死に頭を働かせた。作り直す時間はない。でも、このまま出すわけにはいかない。
何か、何か方法はないか。
そうだ。
僕は、崩れたケーキを前に、新しいイメージを頭の中に描いた。
ぐちゃぐちゃになったチョコレートクリーム。これを、逆手にとる。
僕は大急ぎで道具を揃えると、残った材料で新しいクリームを作り始めた。
「まだ諦めてないのか。往生際が悪いな」
ルドルフの嘲笑を背中に受けながら、僕は無心で手を動かした。
崩れたケーキを、あえて細かく砕く。それをガラスの器に入れ、上から新しいクリームと、フルーツ、砕いたナッツを層になるように重ねていく。
それは、前世の記憶にあった「トライフル」というデザートだった。
見た目は不格好かもしれない。でも、味は絶対に美味しいはずだ。
時間ぎりぎりで、なんとか人数分のデザートを用意し終えた。
息を切らしながら会場に運び込むと、婦人たちが「まあ、これは何かしら?」と不思議そうな顔をしている。
「申し訳ございません。予定していたケーキにアクシデントがありまして、急遽、別のデザートをご用意させていただきました」
僕が頭を下げると、会場がざわついた。
失敗したのか、と囁く声が聞こえる。
もうダメかもしれない。黒狼商会の名に、泥を塗ってしまった。
僕が絶望的な気持ちになった、その時だった。
「黙りなさい」
凛とした声が、会場に響き渡った。
声の主は、お茶会の主催者である、この国の侯爵夫人だった。彼女は、王妃とも親しい、社交界で絶大な影響力を持つ人物だ。
「わたくしは、このデザートを気に入りましたわ。見た目も斬新で、とても美味しそう」
侯爵夫人はそう言うと、優雅な仕草でスプーンを手に取り、僕が作ったデザートを一口、口に運んだ。
そして、その目を、ゆっくりと見開いた。
「……素晴らしい。こんなに美味しいものは、初めていただきましたわ」
その一言で、会場の空気が一変した。
他の婦人たちも、我先にとデザートに手をつけ始め、あちこちから感嘆の声が上がり始めた。
僕は、その光景を、ただ呆然と見つめていた。
***
お茶会は、大成功に終わった。
僕が作った即席のデザートは、『天使の気まぐれ』という名前で、婦人たちの間で大評判になったらしい。
厨房に戻ると、リオード様が腕を組んで待っていた。
きっと、怒られる。失敗したことを、責められる。
そう思って身を縮こませる僕に、彼は静かに告げた。
「ルドルフは、解雇した」
「……え」
「お前にしたことを、すべて白状した。二度と、商会の敷居は跨がせない」
「……」
「よく、やったな。カイ」
そう言って、リオード様は、僕の頭に、ぽん、と大きな手を置いた。
その手の温かさに、張り詰めていたものが、ぷつりと切れた。
涙が、ぼろぼろと溢れて止まらなくなった。
怖かった。悔しかった。でも、それ以上に、リオード様や、お客さんたちをがっかりさせたくなかった。
「よく、一人で乗り越えた。偉かったな」
彼は、僕の体を、優しく引き寄せた。
たくましい胸の中に、すっぽりと包み込まれる。彼の心臓の音が、とくん、とくん、と聞こえてくる。
その音を聞いていたら、僕の心も、少しずつ落ち着いていった。
「……俺がお前を守る」
耳元で、低い声が囁いた。
「だから、お前は何も心配するな。ただ、俺のそばで、菓子を作っていればいい」
その言葉が、どれだけ僕を安心させてくれたか。
この腕の中が、世界で一番安全な場所だと思った。
僕は、彼の胸に顔を埋めたまま、ただ、何度も頷いた。
この人のために生きたい。この人に、この身のすべてを捧げたい。
その想いが、もう僕の中で、どうしようもなく大きくなっていることに、この時の僕は、まだ気づいていなかった。
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