第7話「運命の熱に溶かされて」

 リオード様に守られている。

 その事実は、僕に大きな安心感と、同時に、ほんの少しの罪悪感を与えた。

 彼は商会の当主で、僕はただの奴隷だ。そんな僕が、彼の特別であっていいはずがない。

 いつか、彼の気まぐれは終わる。その日が来たら、僕はまた、灰色の世界に戻るんだ。

 そう思うと、胸が苦しくなった。


 彼との距離が近づけば近づくほど、僕は臆病になっていた。

 彼の優しい言葉も、触れてくる温かい手も、本当は嬉しいくせに、素直に受け取ることができない。

 そんな自分が、もどかしくて、嫌だった。


 そんなある日の夜。

 体に、今まで感じたことのない異変が起きた。

 体の芯が、燃えるように熱い。頭がぼうっとして、思考がまとまらない。

 全身から、甘ったるい香りが立ち上っているのが自分でもわかった。

 これは、もしかして。


『ヒート』


 オメガに、定期的に訪れる発情期だ。

 知識としては知っていたけれど、奴隷として生きてきた僕は、栄養状態が悪かったせいか、今まで一度も経験したことがなかった。

 それが、なぜ、今。

 熱に浮かされた頭で、ぼんやりと考える。

 きっと、ここでの生活が、僕の体を健康にしたからだ。皮肉な話だと思った。

 まずい。このままでは、他の人に迷惑をかけてしまう。オメガのヒート中のフェロモンは、アルファやベータを強く惹きつける。特にアルファには、抗えないほど強力に作用するという。


 僕は、ふらつく足で自分の部屋の扉に鍵をかけると、ベッドに倒れ込んだ。

 息が、苦しい。誰かに、触れてほしい。強く、抱きしめてほしい。

 本能が、アルファを求めて叫んでいる。

 脳裏に浮かんだのは、ただ一人。

 金色の瞳をした、あの人の姿だった。


『リオード様……』


 会いたい。会って、触れてほしい。

 そんなこと、思ってはいけないのに。

 僕の意思とは関係なく、体は正直だった。彼を求める気持ちが、甘いフェロモンとなって部屋中に満ちていく。

 どれくらい時間が経っただろうか。

 意識が朦朧としてきた、その時。


 ドン、と部屋の扉が強く叩かれた。


「カイ!いるのか、カイ!」


 リオード様の、切羽詰まった声。

 どうして、彼がここに。

 僕のフェロモンに、気づいたんだ。

 だめだ、来ないで。僕みたいな汚れたオメガのフェロモンで、あなたを狂わせたくない。

 そう思っても、声が出ない。


「カイ!返事をしろ!」


 次の瞬間、頑丈な鍵が、凄まじい力で破壊された。

 扉を蹴破って部屋に入ってきたリオード様は、息を切らして、その金色の瞳を大きく見開いていた。

 その瞳は、獲物を前にした獣のように、ギラギラとした熱を帯びている。

 彼は、僕のフェロモンを全身に浴びて、理性が飛びかけるのを必死で堪えているようだった。


「……リオード、さま」


「……お前、ヒートだったのか。なぜ、言わなかった」


「ごめ……なさ……」


 僕の体から放たれる甘い匂いに、彼の喉がごくりと鳴る。

 彼はゆっくりと、一歩、また一歩と、僕が横たわるベッドに近づいてきた。

 怖い、と思うはずなのに、僕の体は、彼の接近を喜んでいた。

 もっと近くに来てほしい。早く、その手で触れてほしい。


 ベッドのそばまで来たリオード様は、そこでぴたりと足を止めた。

 彼は、苦しそうに顔を歪めて、自分自身と戦っているようだった。


「……すまない。抑制剤を、取ってくる。それまで、耐えろ」


 そう言って、彼は部屋を出て行こうとした。

 その背中を見て、僕はたまらなくなった。

 行かないで。

 僕を、一人にしないで。


「……いや」


 僕は、震える手で、彼の外套の裾を掴んだ。


「行かないで……ください」


 僕の言葉に、彼の足が止まる。

 ゆっくりと振り返った彼の瞳は、もう、どうしようもないほどの熱に濡れていた。


「……カイ。お前、自分が何を言っているか、わかっているのか」


「わかって、ます」


「後悔、しないか」


「しません」


 僕がはっきりとそう言うと、彼は、ふ、と諦めたように息を吐いた。

 そして、僕の手を優しく取ると、その場に跪いた。

 僕の目線と、彼の目線が、同じ高さになる。


「……お前の匂いを、初めて嗅いだ時から、わかっていた」


 彼は、僕の手の甲に、自分の頬をすり寄せた。

 まるで、甘えるみたいに。


「お前が、俺の『番』だって」


 番。

 アルファとオメガの間に存在する、魂の伴侶。

 その言葉を聞いた瞬間、僕の体中を、雷に打たれたような衝撃が駆け巡った。

 ああ、そうだったんだ。

 だから、僕は、この人にこんなにも惹かれたんだ。

 僕たちが、出会ったのは、偶然じゃなかった。

 運命、だったんだ。


 涙が、頬を伝った。

 嬉しくて、愛しくて、たまらなかった。

 リオード様は、僕の涙を指で優しく拭うと、その唇を、そっと僕の唇に重ねた。


 熱が、移る。

 彼の熱も、僕の熱も、一つになって、溶け合っていく。

 甘いフェロモンが、部屋を満たしていく。

 もう、何も怖くなかった。

 この腕の中でなら、僕は、何にでもなれる気がした。


 外は、静かな夜だった。

 月明かりだけが、寄り添う二つの影を、優しく照らしていた。

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