第4話「芽生えた感情の名前」
リオード様のためにお菓子を作り始めて、一ヶ月が経った。
僕の生活は、奴隷とは思えないほど満たされたものになっていた。
きちんとした食事と、暖かい寝床。新しい仕事にも、少しずつ慣れてきた。
なにより、僕には「菓子を作る」という、はっきりとした役割が与えられた。誰かに必要とされているという感覚が、固く閉ざしていた僕の心を、少しずつ、ゆっくりと溶かしていった。
厨房の人間たちの態度は、相変わらず冷たかったけれど、前のようにあからさまな嫌がらせをされることはなくなった。
僕が当主様に気に入られている、という事実が、彼らにとっての牽制になっているらしかった。
それでも、彼らが僕を見る目に、侮蔑の色が混じっているのは変わらない。
『どうせ、オメガだから体で媚びたんだろう』
『いつまで続くかね、当主様の気まぐれも』
そんなひそひそ話が聞こえてくるたびに、胸の奥がずきりと痛んだ。
違う。僕は、ただ、お菓子を作っているだけだ。
そう言いたくても、声には出せない。僕が奴隷で、オメガであることは、紛れもない事実なのだから。
そんな僕の心の支えは、リオード様が僕のお菓子を食べる時の顔だった。
彼は相変わらず無愛想で、言葉数も少ない。僕と話すことなんて、ほとんどない。
でも、僕が作ったお菓子を口に運ぶ瞬間、彼の厳しい表情がほんの少しだけ和らぐのだ。金色の瞳に、柔らかな光が宿る。
その一瞬を見られるだけで、僕は報われたような気持ちになった。
もっと喜んでほしい。もっと、美味しいって顔をしてほしい。
いつしか、僕はそんなことばかり考えるようになっていた。
その日は、季節の果物を使ったタルトを焼いた。
甘酸っぱいベリーをふんだんに使った、見た目も華やかなタルトだ。きっと、喜んでくれるはず。
少し浮かれた気持ちで、執務室にタルトを運んだ。
「失礼します。カイです。本日のお菓子をお持ちしました」
「……ああ」
中から聞こえてきたのは、いつもより覇気のない声だった。
不思議に思いながら部屋に入ると、リオード様は眉間に深いしわを寄せて、執務机に突っ伏していた。
顔色が悪い。黒い耳も、いつもより元気なく垂れている。
「リオード様?どうかなさいましたか」
「……なんでもない。そこに置いて、下がれ」
明らかに、いつもと様子が違う。
僕は心配になって、彼のそばに近寄った。
「ですが、顔色が……」
「うるさい!下がれと言っている!」
突然の怒声に、びくりと体が竦む。
手から力が抜けて、持っていた皿が床に落ちた。ガチャン、という耳障りな音と共に、僕が心を込めて作ったタルトが、無惨に砕け散った。
「……あ」
「……っ、すまない」
リオード様は、はっとしたように顔を上げて、気まずそうに目を逸らした。
「……片付けは、他の者にさせる。お前はもういい」
「……」
僕は、床に散らばったタルトの残骸を、ただ黙って見つめていた。
悲しい、とか、悔しい、とか、そういう感情よりも先に、胸に広がったのは、心配だった。
彼が、こんなに余裕のない顔をするなんて、初めて見たから。
「何か、お飲み物をお持ちします。温かいものがいいですよね」
「……いらないと言っている」
「ダメです。そんな顔をしているんですから」
僕は、自分でも驚くほど強い口調で言っていた。
リオード様も、僕が反論するとは思っていなかったのか、少し目を見開いている。
僕は、床に散らばったタルトには目もくれず、一度部屋を出て、給湯室へと向かった。
温かいミルクに、少しだけ蜂蜜を溶かす。前世の母が、僕が落ち込んでいる時によく作ってくれた飲み物だ。
それを持って、もう一度執務室に戻る。
リオード様は、まだ同じ場所で、難しい顔をしていた。
「どうぞ」
僕は、彼の前にそっとカップを差し出した。
リオード様はしばらくの間、僕とカップを交互に見ていたけれど、やがて諦めたようにそれを受け取った。
「……甘いな」
「はい。疲れている時は、甘いものがいいんです」
彼は、こくり、と一口ミルクを飲むと、ふう、と長い息を吐いた。
さっきよりも、少しだけ表情が和らいだように見えた。
「……取引で、少し問題が起きてな。珍しい香辛料の独占販売権を、ライバルの商会に横取りされそうなんだ」
ぽつり、と彼が呟いた。
僕に話したところで、何にもならないのに。
でも、彼は誰かに聞いてほしかったのかもしれない。張り詰めていたものが、少しだけ緩んだのかもしれない。
僕は、ただ黙って彼の話を聞いた。
商会のことなんて、僕にはさっぱりわからない。気の利いたアドバイスなんて、できるはずもない。
だけど、彼の言葉を、一つも聞き逃さないように、真剣に耳を傾けた。
彼が話し終える頃には、カップの中のミルクは空になっていた。
「……すまない、お前に話すようなことではなかったな」
「いえ。少しでも、お気持ちが楽になったのなら、よかったです」
「……」
リオード様は、僕の顔をじっと見つめた。
その金色の瞳に、今まで見たことのない、不思議な色が浮かんでいるように見えた。
それは、僕の心をかき乱す、熱を帯びた色だった。
「カイ」
「はい」
「……また、あれを作ってくれ。さっき、床に落としたやつ」
「……!はい、喜んで!」
僕は、満面の笑みで頷いていた。
床に落ちたタルトのことなんて、もうどうでもよくなっていた。
また、作ってほしいと言ってくれた。僕のお菓子を、求めてくれている。
ただそれだけで、僕の心は、春の日差しみたいに暖かくなった。
この時、僕はまだ気づいていなかった。
心配、とか、喜んでほしい、とか。
この、胸の奥で芽生え始めた暖かい感情に、どんな名前がつくのかを。
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