第3話「金色の瞳に灯った光」

 翌朝、僕は厨房長に呼び出された。

 きっと、昨夜のことを怒られるんだ。そう覚悟して、震える足で厨房長の前に立った。

 周りの料理人たちも、面白そうなものを見る目で、こちらを窺っている。


「カイ。お前、今日から厨房の仕事はしなくていい」


「……え?」


「当主様直々のご命令だ。お前は今日から、当主様専用の菓子職人になったそうだ」


 厨房長の言葉に、厨房中がざわめいた。

 奴隷が?菓子職人に?しかも、あの当主様専用の?

 誰もが信じられないという顔で僕を見ている。僕自身が、一番信じられなかった。

 あれは夢じゃなかったんだ。


「ただし、勘違いするなよ。お前が俺たちの仲間になったわけじゃない。当主様が飽きるまでの、一時的な気まぐれだ。せいぜい、粗相のないように励むんだな」


 厨房長の言葉は相変わらず棘々しかったけれど、逆らうことは許されなかった。

 僕には、新しい仕事場が与えられた。それは、厨房の隣にある、小さな準備室だった。今まで物置として使われていた部屋を片付けただけの簡素な場所だったけど、僕一人が使うには十分すぎるほどの広さがあった。

 そして、そこには、僕が今まで見たこともないような、たくさんの食材が運び込まれていた。

 真っ白な小麦粉、きらきら光る砂糖、新鮮な卵に、つやつやした木の実や果物。


「これらは、好きに使っていいそうだ。当主様を満足させられるような菓子を作れ。材料の追加が必要なら、俺に言え」


 厨房長はそれだけ言うと、部屋を出て行った。

 一人残された僕は、目の前に積まれた食材の山を前に、呆然と立ち尽くす。

 本当に、これを使っていいんだろうか。

 夢みたいだ。昨日までは、廃棄される寸前の材料をこっそり盗んで、隠れるようにしてクッキーを焼いていたのに。


『俺のためだけに菓子を作れ』


 昨夜のリオード様の言葉が蘇る。

 どうして、僕なんだろう。もっと腕のいい菓子職人は、この国にたくさんいるはずなのに。

 わからないことだらけだったけど、僕にできることは一つしかなかった。

 言われた通り、リオード様のために、美味しいお菓子を作ることだ。


 僕はまず、前世の記憶を頼りに、一番自信のあるクッキーを焼くことにした。

 バターをたっぷりと使った、シンプルなクッキー。材料がいいから、きっと昨日よりもずっと美味しくなるはずだ。

 丁寧に材料を混ぜ合わせ、生地をこねる。一つ一つの工程を、心を込めて行った。

 甘いバターの香りが部屋に満ちていく。その香りを吸い込むと、不思議と、強張っていた心が少しだけ解けていくような気がした。


 焼きあがったクッキーを白い皿に綺麗に並べて、リオード様の執務室へと運んだ。

 大きな扉の前で、何度も深呼吸をする。


「失礼します。お菓子をお持ちしました」


「入れ」


 中から聞こえた声に、緊張しながら扉を開ける。

 リオード様は、大きな執務机で書類の山に目を通していた。僕が入ってきたことに気づいても、顔を上げようとはしない。


「そこに置いておけ」


 冷たい声。

 やっぱり、昨日のことはただの気まぐれだったんだ。本当は、僕のお菓子なんて、どうでもいいのかもしれない。

 胸がちくりと痛んだ。

 僕は言われた通り、机の隅に皿を置くと、静かに部屋を出ようとした。

 その時だった。


「待て」


 呼び止められて、僕はびくりと肩を震わせる。

 振り返ると、リオード様が皿の上のクッキーを一つ、手に取っていた。そして、それをじっと見つめている。


「……これは、何という菓子だ」


「クッキー、です」


「クック……?」


 初めて聞く単語に、リオード様は不思議そうな顔をした。

 この世界には、まだクッキーという概念がないのかもしれない。

 リオード様は、手に持ったそれを、ゆっくりと口に運んだ。

 さくり、と軽やかな音が執務室に響く。

 彼の金色の瞳が、昨日と同じように、ほんの少しだけ見開かれた。


「……美味い」


 ぽつり、と呟かれた言葉。

 僕は、自分の耳を疑った。

 美味しい、って言った?この、リオード様が?

 僕が驚いて固まっていると、リオード様はもう一つクッキーを口に放り込み、僕に向き直った。


「カイ、だったか」


「は、はい」


「明日も作れ。違う種類のものを」


「……はい」


「それと」


 リオード様は立ち上がると、僕の方へ歩いてきた。

 大きな影が僕を覆う。すぐ目の前に、整った顔立ちがあった。近くで見ると、彼の瞳は溶かした金みたいに綺麗だった。


「お前、ひどい格好だな」


 そう言って、リオード様は僕の頬にそっと触れた。

 骨張って、血色の悪い僕の頬。彼の指先は、意外なくらいに温かかった。

 触れられた場所から、熱がじわりと広がっていく。


「服と、寝床を用意させよう。そんな体で倒れられては、菓子が食えなくなるからな」


 それは、僕の体を心配する言葉ではなかったのかもしれない。

 ただ、菓子を作るための道具として、ちゃんと機能させようとしているだけ。

 わかっているのに、僕の心臓は、とくん、と大きく音を立てた。

 頬に触れた指先が離れていく。その温かさが名残惜しくて、僕はリオード様の後ろ姿を、ただじっと見つめていた。


 その日から、僕の生活は一変した。

 汚れた麻布の代わりに、清潔で着心地のいい服が与えられた。寝床も、物置部屋から屋敷の使用人用の個室に変わった。

 そして何より、僕が作るお菓子を、「美味しい」と言って食べてくれる人ができた。


 毎日、違うお菓子を考えた。

 今日はパウンドケーキ。明日はマフィン。その次は、果物を煮詰めて作ったジャムを添えたスコーン。

 前世の記憶を総動員して、僕は夢中で菓子を焼き続けた。

 リオード様は、僕が作った菓子を、いつも黙って、でも、少しだけ嬉しそうに食べてくれた。

 執務室に二人きりの、甘い香りが満ちる時間。

 冷たくて、何もかもを拒絶していたはずの彼の瞳に、僕の菓子を食べている時だけ、確かな光が灯るのがわかった。


 その小さな光が、僕にとっての、新しい希望になった。

 この人のために、もっと美味しいお菓子を作りたい。

 灰色だった僕の世界に、ほんの少しだけ、色がつき始めた気がした。

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