平坦の誘惑と、心の麻酔

想世

平坦の誘惑と、心の麻酔

「大人になるって、きっと、平坦に慣れていくことだ」

ふと、そんなことを考える。窓の外を流れる景色はいつもと同じだ。通勤電車、オフィスのデスク、決まった時間に鳴るスマートフォンの通知音。人生のレールが敷かれていくにつれて、日々は洗練され、効率的になり、そして驚くほどに同じような色になっていく。

もちろん、それは安定という名の恩恵でもある。予測可能な日々は、精神的な安全地帯を提供してくれる。だけど、その安全と引き換えに、僕らはある種の代償を支払っているのかもしれない。それは、心の奥底で小さく響く、「驚き」の喪失だ。


子どもの頃、僕の世界は万華鏡だった。

裏庭で見つけた珍しい形の石ころ、初めて読めた漢字、クラスメイトの秘密の告白、雨上がりの虹。それら全てが、手のひらに乗るほどの「特別」だった。ほんの些細な出来事一つで、胸は弾み、頬が熱くなり、その感情は体全体を駆け巡るエネルギーになった。あの頃の感情の振れ幅は、まるでジェットコースターのようで、人生は毎日が祝祭のようだった。

しかし、歳を重ねるにつれて、その「嬉しさの基準」が徐々に歪んでいくのを感じる。

以前なら十分だった、いや、それ以上に心を震わせたはずの些細な刺激は、もう心の扉を叩くことすらできなくなってしまった。仕事で小さな成功を収めても、「まあ、当然だ」と冷静に処理してしまう。美味しい料理を食べても、「美味しいね」という定型句で済ませてしまう。それはまるで、体が環境に適応し、感覚が鈍くなってしまったかのようだ。

僕たちが経験を積み、知識が増えるほど、世界は予測可能になり、既視感(デジャヴ)で満たされていく。新しい事態に直面しても、「ああ、これは以前にも似たようなことがあった」と、過去のデータベースが即座に答えを提示する。その瞬間、かつて胸を焦がした「発見」の炎は、静かに消えてしまう。

この、日々の中で減っていく驚き、喜びの絶対量の低下こそが、「大人になる」ことの本質なのかもしれない。


そうして、僕は、毎日ドラマチックな展開を求め始める。

日々の平坦さを埋めるために、僕たちは無意識のうちに、より強い刺激に手を伸ばしていく。それはまるで、弱い薬ではもう効かなくなってしまった体に、少しずつ強い麻酔を求め始めるようなものだ。

例えば、エンターテイメントの世界に没入する。映画やドラマ、ゲームの世界では、現実ではありえないほどの「非日常」を摂取しようとする。刺激的な愛憎劇、世界の命運を賭けた戦い、衝撃的などんでん返し。日常の平穏と対比すればするほど、フィクションの非日常は僕たちを強く惹きつける。あるいは、消費と所有の欲望に駆られることもある。新しいガジェット、高級ブランド、手の届かない体験。手に入れるまでは胸を焦がすが、手に入れた瞬間、その興奮はすぐに冷め、また次の「より高価な、より珍しい」刺激を求めてしまう。さらに、人間関係においても、安定した関係よりも、ハラハラするような危うい関係に惹かれたり、他人のドラマティックなスキャンダルに過剰に反応したりする。それは、自分の人生には足りない「波」を、他者の人生の中に見ようとする行為だ。

かつての「些細な喜び」は、もう僕らの感覚を揺り動かすには弱すぎる。

僕たちは、より大きな、より速い、より派手な「効くもの」を探し続けてしまう。この終わりのない探索は、大人になった僕らの「心の渇き」の証明なのかもしれない。喜びの感度が鈍った代わりに、僕たちは刺激への耐性だけを上げてしまったのだ。


では、僕たちは、この「平坦の誘惑」と、それに伴う「刺激への渇望」から逃れることはできないのだろうか。

大人になった僕は、子どもの頃のように、日常の断片をそのまま受け入れる純粋な心を失ってしまった。すべてを分析し、評価し、過去の経験と照らし合わせる、効率の良い脳を手に入れた。しかし、感動とは、効率や予測可能性の対極にあるものだ。

もしかしたら、僕たちが本当に探すべきものは、「より強い刺激」ではなく、失われた「感度の良さ」を取り戻すことではないだろうか。

それは、いわば「心の麻薬」を断ち、感覚をリハビリするような行為だ。僕たちは、意識的に「初体験」を探す必要がある。いつもと違う道を歩いてみる。いつもと違う飲み物を頼んでみる。それがどんなに小さな変化であっても、「初めて」を意識的に見つけ出す訓練をする。また、感情の「解像度」を上げることも大切だ。美味しいと感じた時、「何が」美味しいのかを言葉にする。「甘みだけではなく、少しの酸味と、ほのかな苦味が全体を引き締めている」と、感情を安易な言葉で終わらせず、その細部に目を凝らすのだ。さらに、結果に結びつかない趣味や、非効率的な寄り道をあえてする「無駄」を許容することも必要かもしれない。その「無駄」の中にこそ、予測できない偶然の発見や、小さな驚きが潜んでいる。

大人になる過程で、僕たちは確かに多くのものを手に入れた。知識、経験、安定、そして生活力。

しかし、その手に入れたものに目を奪われ、足元に転がっている「子どもの頃の宝物」を見過ごしてしまってはいないだろうか。

僕たちの世界は、決して平坦になったわけではない。ただ、僕たちが世界を見る視線が、あまりにも「大人」になりすぎてしまっただけだ。

もう一度、心を柔らかくして、裏庭の石ころや、雨上がりの虹を、「初めて見たもの」として受け止める。

この鈍化した心に、再び小さな光が灯る瞬間にこそ、大人になった僕たちが本当に求めている、本物の「ドラマ」があるのかもしれない。

そして、そのドラマは、壮大なフィクションの中ではなく、他でもない、この「平凡な毎日」の中にこそ、静かに息づいている。僕はそう、信じている。



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