汚い絵を描く男
青嶋六三四
汚い絵を描く男
かつて、マルコ先生ほど美しい絵を描く人はいなかった。
教会の高い天井に描かれた聖人の頬は、祈りの熱でまだ温かいように見えた。蝋燭の煤で黒ずんだ壁に、先生の色だけが澄んで浮いた。貧しい人も、虚栄に着飾った人も、同じように息を呑んだ。誰かが「救われた」と囁くたび、先生は頷きも笑いもしなかったが、筆先だけが確かに軽くなった。
それが、このところすっかり身を潜めている。
アトリエに立てかけられたキャンバスには、子どもの落書きのような線が絡まり、塗りつぶされ、また塗りつぶされていた。別の一枚には、腐敗して輪郭を失った果実が、まるで食卓の静物のように並んでいる。何かの壁の欠けた部分をそのまま写し取っただけのような灰色の面もあった。種類はばらばらなのに、そこから受ける感想はひとつに尽きる。
汚い。
私は、先生の背中を見つめながら、淹れたての紅茶をサイドテーブルに置いた。先生は振り返りもしない。キャンバスに向かい、何かに憑かれたように筆を動かし続けている。
「……先生、紅茶を」 「置いておけ」
短く吐き捨てられた言葉には、私への関心など欠片も含まれていない。私は嘆息を飲み込み、アトリエの壁を見回した。汚い絵に混じって、古い絵が一枚だけ飾られていた。猫の絵だ。窓辺の板の上で丸くなり、片耳だけが光を拾っている。毛並みは一本一本が呼吸をしているみたいで、目は半分閉じているのに、私が台所で皿を落としたときの音には真っ先に反応した、あの猫の気配がそのまま残っている。
あの猫はもういない。いつからか餌皿が空のままになり、夜に鳴き声がしなくなった。首輪だけが、棚の上に置かれている。革の端が擦り切れ、小さな鈴がくすんでいる。触れれば、体温が戻ってきそうで、私は触れない。
先生の手が止まる。筆を洗い油の壺に突っ込むと、彼はよろめくように立ち上がった。 衣服には染みがこびりつき、伸び放題の白髪が肩にかかっている。かつて『光の魔術師』と呼ばれた男は、今やこんな姿をしている。
「……奥へ行く。誰も入れるなよ」
先生は、アトリエの最奥にある重厚な樫の扉へと向かった。 そこは、この屋敷で唯一、私が入ることを固く禁じられている部屋だ。私は、いつものように「はい」と答えた。弟子の返事は、基本それしかない。
それでも扉の前を通るたび、目だけがそちらへ吸い寄せられる。食事も摂らず、睡眠も削り、師匠はあの中で何日も過ごすことがある。あの中で何が描かれているのか、私は知らない。だが、想像はつく。このアトリエにあるものより、もっと酷くて、もっと汚い、見るに堪えないモノが積み上げられているのだろう。
私は見ない。見なくていい。見ないで、描く。
そう思っていた。
湖へ行く日は、朝の光が柔らかい日を選ぶ。
石畳の街を抜け、葡萄畑の外れを過ぎると、風が変わる。水が近い匂いになる。背負ったイーゼルが肩に食い込んでも、ここへ来ると呼吸が楽になるのは、私がまだ若いせいか、あるいは単純に、世界が美しいせいだと思っていた。
私は湖のほとりに腰を下ろし、白いキャンバスを立てた。
水面は、空の色を借りて青くなる。雲が動くたび、湖もまた動く。葦の影がゆっくりと伸び縮みし、遠くの山は、何も言わずにそこにある。こういうものがある限り、世界は美しい。
先生の絵も、きっとそうだ。美しいものは人を救う。私は救われた。あの教会の天井を見上げたとき、現実の汚れが一瞬だけ薄れた。薄れたのではない、光が差したのだ。光は、汚れを消さないが、そこに別の層を重ねる。だから人は立ち上がれる。
私は筆を走らせながら、先生の最近の絵を思い出して、眉をしかめた。
どうして、あんなものを描くのだろう。
どうして、わざわざ。
美しいものを描けばいい。美しいものを、もっと。
私は夢中で筆を走らせた。沈みゆく太陽が湖面に落とす、溶けた金のような光。対岸に並ぶ針葉樹の、深い藍色の影。さざ波の一粒一粒が、光を孕んで輝くその瞬間を、キャンバスに定着させていく。
筆が乗っていた。迷いはなかった。選ぶべき色は、直感的にすべてわかった。水面の青に、空の白を一滴混ぜると、光が生まれた。葦の影に、わずかな紫を入れると、影が呼吸を始めた。私は自分の手が、先生に近づいている気がした。胸が熱くなった。先生から盗んだ技術のすべてを、この一枚に注ぎ込む。かつて先生が私に見せてくれた、あの「奇跡のような光」を、今度は私が先生に見せるのだ。
『目を覚ましてください、先生』
筆を動かすたび、祈りのような言葉が脳裏をよぎる。あの汚い絵の山は、きっと長い悪夢なのだ。先生は、愛猫の死や老いによって、一時的に美を見失っているだけだ。私がこの絵を見せれば、先生はきっと思い出すはずだ。かつて自分が、どれほど美しい世界を見ていたかを。そして、それを描くことがどれほどの歓びであったかを。
最後の一筆を置き、私は一歩下がった。
息を飲む。
「……できた」
——これは、私の画家人生における最高傑作だと、迷いなく思えた。琥珀色の湖水は、触れれば指が濡れそうなほどの透明感を湛え、空のグラデーションは、手では到底追いつけないほど滑らかだった。どこにも汚れがない。一点の曇りもない。これこそが「絵画」だ。これこそが、人々が――そして先生が求めている「救い」だ。
胸の奥から、熱い充足感がこみ上げてくる。ああ、私はなんて幸せなんだろう。こんなにも美しいものを生み出すことができる。その歓びで、指先の震えが止まらなかった。
私はまだ乾ききっていないキャンバスを、宝物のように抱え上げた。
早く、先生に見せたい。
この絵を前にすれば、あの気難しい先生も、きっと昔のような穏やかな瞳で微笑んでくれるはずだ。
「よくやった、ルカ」と。
日が落ち、紫色の
アトリエに戻ると、先生はいつもの椅子に深く沈み込んでいた。部屋の空気は重く、吸い殻とテレピン油の匂いが充満している。私はその淀んだ空気を切り裂くように、抱えてきたキャンバスを先生の目の前に突き出した。
「先生、見てください」
私の声は、期待で上ずっていた。先生が緩慢な動作で顔を上げる。その濁った瞳が、私の絵を捉えた。夕暮れの湖。完璧な構図。美しい光の陰影。私は固唾を飲んで待った。先生の口から、かつてのような賞賛の言葉が漏れるのを。あるいは、その瞳に正気の光が戻るのを。
長い沈黙があった。先生は、まるで商店のチラシでも見るような虚ろな目で、私の最高傑作を眺めていた。やがて、乾いた唇が動く。
「……綺麗だ」
心臓が跳ねた。認められた。やっと……。
「綺麗すぎて、吐き気がするな」
私は耳を疑った。「……え?」「お前の絵は綺麗だ。だが、それだけだ」
先生は興味を失ったように視線を逸らした。カッとなって、私は食い下がった。
「綺麗で、何がいけないんですか。たとえ、現実が辛くても、絵の中では美しいものに浸れる。素晴らしいことじゃないですか」
「……浸る、か」
先生は深く、重いため息をついた。
「お前がやっているのは、臭いものに蓋をしているだけだ。見たくない現実から目を逸らし、耳を塞ぐ。……それがお前の言う『絵画』か?」
「違います! 僕は……!」「ルカ」
先生が私の名を呼んだ。その声の響きがあまりに静かで、私は言葉を飲み込んだ。先生は、あの、汚物を描いている時とは違う、どこか悲しげな目で私を見つめていた。
「一つだけ聞こう。お前は今、幸せか?」
唐突な問いだった。私は戸惑いながらも、描き上げたばかりの絵の感触と、昂る高揚感を思い出し、力強く頷いた。
「……はい。幸せです。こうして先生の下で絵を学び、納得のいく作品を描けたことが、何より誇らしい」
嘘偽りのない本心だった。だが、それを聞いた瞬間、先生の顔から表情が抜け落ちた。彼は深く、ため息をついた。
「そうか……。なら、お前はもう絵を描くな」
思考が停止した。「……はい?」「絵筆を折れ。アトリエを出て、故郷に帰って恋人でも作れ。そして二度と、キャンバスになど向かうな」
「な、何を言っているんですか。僕の絵が気に入らないからって、破門だなんてあんまりだ!」「違う!」
先生が叫んだ。老体からは想像もできないほど鋭い怒号が、アトリエを震わせた。先生は立ち上がり、私の肩を鷲掴みにした。その指が痛いほど食い込む。
「才能の話ではない。お前は『満ち足りて』しまったと言っただろう! その絵を見ればわかる。悩みも、毒もない。ただ小奇麗にまとめただけだ。……そんなものは絵画ではない」
「それが何かいけないと言うんですか!」
「絵描きは幸せになってはいけないんだ」
先生の声が、懇願するように震えだした。「満ち足りた人間に、本当の絵画は描けない。絵とは、欠落からしか生まれないのだ。……お前はまだ若い。引き返すなら今しかない」
先生の顔が近づく。その瞳の奥には、私への嫉妬でも軽蔑でもなく、深い哀れみがあった。
「絵なんぞのために、お前の永い『生』を消費してはいけない。私のように、なってはいけないんだ」
私は、先生の手を振り払った。理解できなかった。いや、理解したくなかった。この人は、自分の才能が枯れたから、若い私に嫉妬して、道連れにしようとしているだけだ。あるいは、完全に狂ってしまったのだ。
「……僕は描きます」 私は睨みつけるように先生を見返した。
先生は、力なく手を下ろした。もう何も言う気力がないようだった。ただ、去り際に一言だけ、独り言のように呟いた。
「奥には入るな」
その日から、先生の絵はますます汚くなった。
私は朝起きるたび、まず猫の餌皿を見る癖が抜けなかった。空だ。皿の縁に、乾いた欠片が少し残っている。指でなぞると、粉になって落ちる。
居間の猫の絵は、変わらずそこにいる。光を抱えた毛並み。眠そうな目。絵は死なない。死なないから、余計に痛い。
アトリエの机の上に、赤い絵が置かれていた日があった。
乾きかけの絵具が光を吸っている。私は最初、それが何の絵か理解できなかった。臓物だと気づくのに、少し時間がかかった。赤い塊が、皿の上に並べられているように見えたからだ。静物画のように、整っている。膜の薄さ、管の曲がり、切れ目の縁。先生の手は正確すぎた。
私は喉が詰まった。目を逸らしたくて、逸らせない。視線が貼り付く。貼り付いて、ようやく気づいた。絵の端に、灰色の毛が少しだけ描かれている。ほんの数本。描こうと思わなければ描かない毛の描写だった。
私は急に、棚の上の首輪を見た。
首輪は、そこにある。鈴は鳴らない。
私は何も言わなかった。言えなかった。もし「これは」と聞けば、答えが返ってくるのが怖かった。答えが返ってきたら、私の中の何かが壊れる気がした。
代わりに、私は自分の湖の絵を見た。隅に置かれ、布が掛けられている。布の上に、絵具の粉が積もっている。
先生は、その日も黙って筆を動かした。筆を洗い、布で拭き、また動かす。腕は細いのに、筆圧だけが強い。キャンバスに色を叩きつける音がすることがある。乾いた布で濡れた絵具を擦り取る音がすることがある。擦り取られた絵具は床に落ち、小さな塊になって固まる。
夜、奥の部屋からは明かりが漏れていた。私は眠れず、廊下に出た。突き当たりの扉の隙間から、光が細く漏れている。扉の向こうで、何かが動く気配がした。絵具を混ぜる音かもしれない。布を引き裂く音かもしれない。私の想像が勝手に音を作っているだけかもしれない。
私は扉に近づきかけて、足を止めた。
「奥には入るな」
先生の声が、扉の木目に染み込んでいるみたいだった。
私は引き返した。
引き返しながら、自分が腹立たしくなった。私は弟子だ。学びたい。先生の全てを知りたい。そう思うのに、恐れている。恐れているくせに、先生の汚い絵を「間違い」だと裁きたがる。
矛盾しているのは私の方かもしれない。
そんなことを考えるのは、夜だけだ。
朝になると、私はまた信じる。
美しい絵は人を救う。
先生は美しい絵を描ける人だ。だから戻れる。
戻ってほしい。戻るべきだ。
冬が終わりかけた朝、アトリエは異様に静かだった。
いつもなら、夜明け前からどこかで布を擦る音がする。水桶に筆を入れる音がする。先生が咳払いをする音がする。今日は何もない。時計の針の音だけが、壁を叩いている。
私は居間へ行き、先生の名を呼んだ。
返事がない。
台所にもいない。寝室の扉は閉じたままだ。外套も靴も、そのまま揃っている。
アトリエの奥の扉が、今日は少しだけ開いていた。
扉の前に立つ。私は息を止めた。
扉の隙間から、冷たい空気が漏れてくる。絵具の匂いより、もっと湿った匂い。土と水と、どこか鉄の匂いが混ざっている。
私は立ち尽くした。ここで引き返せば、私はまだ弟子でいられる気がした。言いつけを守る弟子。先生の世界の外側にいる弟子。でも、胸の奥に小さな不安が膨らんでいた。膨らんで、喉まで上がってくる。吐き出さないと苦しい。
ノックをする。返事はない。胸騒ぎがした。私は禁を破り、ドアノブに手をかけた。重い樫の扉は、軋んだ音を立ててあっけなく開いた。まるで、私に見つけられるのを待っていたかのように。
一歩足を踏み入れた瞬間、息が詰まった。
窓のない部屋の壁一面を、数えきれないほどの「汚い絵」が埋め尽くしていた。 潰された虫。膿んだ皮膚。死骸を貪る獣。暴力的な筆致で描かれたそれらは、壁から床まで溢れ出し、まるで部屋全体が巨大なゴミ捨て場と化しているようだった。
……言葉が出なかった。
その汚泥の海の中心で、先生は倒れていた。椅子から崩れ落ちたような姿勢で、床に突っ伏している。駆け寄って肩を揺するが、その体は氷のように冷たく、硬直していた。死んでいた。かつて教会の天井を照らした男が、こんな絵に囲まれて、誰にも看取られず倒れている。
「……なんで……どうして、こんな……」
涙が溢れた。悲しみと、そして怒りだった。あなたは最期まで、世界を呪っていたのか。こんな汚いものを描き殴って、孤独に死んでいくことが、あなたの望みだったのか。
その時だった。 先生が倒れているそのすぐ傍らに、一台のイーゼルが立っていることに気づいた。そこには、汚れた布がかけられた一枚のキャンバスがあった。この地獄のような部屋の、ちょうど中心点。先生が絶命する最期の瞬間まで対峙していたであろう、最後の作品。
私は震える手で、その布を掴んだ。また、臓物だろうか。それとも、もっとおぞましい何かだろうか。 覚悟を決め、私は布を引き下ろした。
――世界が、止まった。
そこに描かれていたのは、光だった。いや、それは「一人の少女」の姿をしていた。だが、その肌の質感、微笑みの慈愛、背後に広がる空の色彩――すべてが、私が湖畔で描いたあの絵など児戯に思えるほど、圧倒的な透明度で描かれていた。神々しかった。周囲の汚い絵が、まるで泥沼のように見えるほど、その絵だけが蓮の花のように清らかに発光していた。
私は、その場に崩れ落ちた。理解したからだ。いや、理解したと思ったからだ。
「……そうだったんですね、先生」
嗚咽が漏れた。周囲を見渡す。壁を埋め尽くす「汚い絵」たち。これらは狂気の産物などではない。たった一枚の『美しいモノ』に辿り着くまでに、先生が吐き出し、置き去りにしてきた殻のように見えた。泥の中からしか蓮が咲かないように、先生は自らの魂を削り、世界の汚辱をすべて受け止めた上で、最後にこの純白へと回帰したのだ。
『絵描きは幸せになってはいけない』
あの言葉の意味が、今ならわかる。この美しさを手に入れるために、先生はあえて幸せを捨て、地獄を歩いたのだ。世界を愛するがゆえに、世界に絶望してみせたのだ。 先生は、嘘つきだ。 誰よりも、美を信じていたんじゃないか。
「見つけましたよ、先生」
私は涙を拭い、その絵を見上げた。腐臭漂う部屋の中で、その絵だけが永遠の命を宿して輝いている。私の胸のうちにあったわだかまりは消え失せ、震えるほどの感動が全身を支配していた。
私は今日、知ってしまった。
世界で一番、美しい絵を。
先生の死は、すぐに街に広がった。
昼、教会の鐘が鳴った。鐘の音はいつもと同じなのに、街の空気が少し違う。人は「巨匠が逝った」と言い、十年前の祭壇画の話をし、先生の名前を口にするときだけ声を落とした。
翌日、批評紙が小さな欄で先生を讃えた。代表作の名が並び、「晩年の迷走」「最期の回帰」という言葉が添えられた。誰かが言い始めた言葉が、活字になって定着していく。活字は手が早い。人の耳より早い。
画商が来た。黒い外套の男だった。香水の匂いが部屋の絵具の匂いを押しのける。
男はまず、居間の猫の絵の前に立った。しばらく黙って見て、やがて小さく頷いた。
「……これは良い。皆が欲しがっていた
私は引っかかった。「皆が欲しがっていた」。先生は誰かの欲望を満たすために絵を描いてきたわけではない。そう言い返したかったが、口が動かなかった。 私の中のどこかで、先生が教会の天井を描いたときにも、そこには祈りという名の「注文」があったのだ、という声がして、喉が塞がった。
男はアトリエの奥を指さした。
「最後の一枚は?」
私は先生の言いつけを思い出した。奥には入るな。だが、先生はもういない。言いつけを守る相手がいない。守る意味だけが残っている。私は黙って奥へ案内した。扉を開けるとき、手が汗ばむ。
男が遺作を見た瞬間、顔が変わった。目の奥が光る。口元が少しだけ緩む。人が欲しいものを見つけたときの顔だ。祈りの顔に似ている。似ているのに、匂いが違う。
「これだ」
男はささやくように言った。
「オークションにかけましょう。——1億はくだらないはずだ」
数字だけが、やけに軽い音を立てて、私の耳の内側に張りついた。
男は他に私の絵を何枚か確認したのち、慌ただしく出ていった。
私は部屋の中でひとり立ち尽くしていた。鼻を絵具の匂いに混じって、腐敗臭がくすぐる。
——匂いの主、灰色の毛が生えた赤黒い肉塊を、私はじっと眺めていた。
「それでは、本日の目玉。——天才が最期に残した、幻の傑作です」
オークショニアの声とともに、壇上の幕が下りた。どよめきが起きる。
現れたのは、あの奥の部屋で、薄暗い中でも白く見えた少女の絵だ。強いライトを浴び、その白が冷たく硬くなる。額縁の金がぎらりと光を返し、絵の表面に薄い膜を張る。
私は胸が熱くなった。
見ろ——と、言いかけて言葉を飲み込む。舌に、紙を押し当てたような乾いた味が広がった。
競りが始まった。
「五千万!」
「六千万!」
「一億だ!」
声が重なるたび、会場の空気が前へ倒れる。
人々は椅子の背から腰を浮かせ、目録を握る指に力をこめる。手袋の布がきしみ、唇が乾き、舌がその上を這う。目尻の皺が寄り、瞳孔がじわりと開く。
私の隣の男は、番号札を掲げたまま息を止めていた。肩が小刻みに震えている。その震えに呼応するみたいに、どこかで椅子がギイと鳴った。
「俺のコレクションが——」
「倍になる——」
「誰にも渡さん——」
欲のこもった声が飛び交う。天井のシャンデリアがわずかに揺れ、その光が汗ばんだ額に反射する。
私は、その光景を呆然と眺めていた。
……見たことがある。
胸の奥で、小さな声がした。
身を乗り出す背中。札を握りしめた拳。むき出しの歯。唾を飛ばしながら叫ぶ口。
キャンバスの上で口を開けていた獣たちが、額縁から抜け出し、背広を着て椅子に座っている。
壁を埋め尽くしていた「汚い絵」が、ぐらりと立ち上がる。
餌の皿に顔を突っ込んでいた豚の背中が、人間の背広の肩口と重なる。腐肉を漁る影が、カードを振り上げる腕の動きと重なる。絵具で塗り潰された地獄が、そのまま会場の空気に滲み出してくる。
息が詰まった。喉に見えない指がかかったみたいだった。
あの部屋の匂いが、鼻先に蘇る。絵具と腐敗と鉄の匂い。膝が少しだけ笑うのを感じた。
壇上の絵を見る。
あれほど神々しかった少女の微笑みは、もう私には見えなかった。
人々の放つ熱気と欲望の
少女は静かに微笑んでいる。だがその口元は、さっきまで私が知っていた優しい弧ではなく、ほんの少しだけ、上へと吊り上がって見えた。笑っているのか、嗤っているのか、自分でも判別がつかない。
ハンマーの音が、銃声のように会場に響き渡った。
史上最高額での落札。割れんばかりの拍手と歓声。男たちが勝者を称え、敗者を罵り、シャンパングラスを掲げる。泡のはじける音が、肉を噛み千切る音と重なって聞こえた。
その喧騒の中心で、私は一人、吐き気を噛み殺しながらその絵を見つめていた。
――そうか。
先生。
いや、まさか。
そんな……。
私は今日、世界で一番醜い絵を知った。
汚い絵を描く男 青嶋六三四 @aomushi877
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