第3話 人質

 警察たちが心配そうな面持ちで眺める中で、はいほむらは静かに民家へと足を踏み入れた。外とは比べ物にならない緊張感に耐えながら、二人はゆっくりと廊下を進む。しかし、一階に人の気配は感じられない。


「おい、お前ら! 何、勝手に入ってきている! 人質がいるって言っているだろうが!」


 階段の上から怒号が家中に響いた。声がした方に顔を向けると、階段を上がった先に犯人と思わしき中年男性が立っていた。その手にはナイフ、そして人質も抱えている。人質の女性の表情からは、既に恐怖が限界に達していることが伺えるだろう。


「それ以上、近づいてみろ。こいつの命がどうなるか、わからないわけじゃないだろ?」

「もちろん、わかっているよ。君の要求もね。無事に逃走したいのだろ? ここには、私たちなら協力できるという話をするために来たのさ。警察には内緒でね」


 灰音はまず犯人と会話を試みた。一方の焔は、緊迫感で息が詰まり、声も出せないように見える。


「協力だと?」

「ああ、警察が要求を呑んで、君をみすみす逃がすわけにはいかないというのは、君自身もわかっているだろ?」

「……」


 犯人は黙ってしまった。人質立て籠もり事件の結末というのは大体二択しかない。長期戦の末に犯人が諦めて投降するか、痺れを切らして警察が強行突入するかである。そして、どちらにせよ、犯人が無事に逃げ切れないということは変わらない。


「私たちなら、君の逃亡を手助けできる。なぜなら、私たちは警察とは別の独立した組織だからね。なおという名前くらい聞いたことあるだろ?」

「特殊な術を使う奴らということは知っている。だが、信用できるわけがないだろ! どうせ俺に術をかけようって魂胆が見え見えだ!」


 犯人は再び大声を上げた。灰音に動揺はない。しかし、犯人が叫ぶ度に、人質の子が震える姿を見るのは心が痛い。こういうのは、いつまで経っても慣れないものだ。


「君に術を使うつもりなら、もうやっていると思わない? 武器も見ての通り、持っていない。警察と違って、君を捕まえるつもりはない。私たちは本当にその人質の子を助けたいだけだよ」

「……」

「そして、人質の子を解放してくれるというのなら、君が警察から逃げることに全面的に協力しよう。私たちの力なら、それができる。ここに断言するよ」


 犯人から疑惑の目を向けられながらも、灰音は冷静に言葉を紡いだ。一瞬でも犯人に心の揺らぎをつくることができれば、それで良い。大事なのは、人質の安全第一を強調することである。


「まだ信用できないって顔しているね。わかった、証拠を見せようじゃないか」

「証拠だと?」

「逃走用の車を用意している。赤色の車がそこの窓から見えるはずだ」


 灰音は窓に視線を誘導した。直後、犯人は一瞬窓の方に目を逸らす。犯人にとっては、僅かな時間。しかし、灰音にとっては、距離を詰めるのに十分な時間だ。


「な!?」


 犯人が突然の接近を認知したときには、既に灰音の攻撃が犯人の体を捉えていた。犯人の鈍い声と同時にナイフが床に落ちる。


 一瞬の出来事に、焔は動けなかった。気づいたときには、犯人の制圧が完了していたと言うべきだろうか。


「嘘つきが……」


 腕を完全に抑えられながら、犯人が吐き捨てるように呟いた。


「言葉は信じるものじゃないよ。もし君が心を読める術者なら、話は別だけど」


 灰音によって、事件は一件落着したように見えた。しかし、灰音の強引な突撃の瞬間、人質の女性に積もり積もった精神的ストレスは臨界点を超えていた。


 次の瞬間、周囲に人質の子が抱えていた絶望の感情が降り注ぐ。絶え間ない恐怖心が精神に流れ込み、灰音たちを襲った。


「……これは、感情伝播!?」


 灰音が危惧していた事態が現実になってしまった。


 人質が女性かつ精神が不安定な高校生であることは、精神負荷による霊魂術の発現可能性を意味する。もちろん、霊魂術が発現するかどうかは遺伝的な傾向に依存する。故に、実際に霊魂術が発現する確率は極めて低く、経験豊富な灰音もこれまで目にしたことはなかった。


 決して、事件に対する灰音の行動が悪かったという話でもない。むしろ、灰音は霊魂術の発現を警戒していたと言えるだろう。だからこそ、長期戦による精神的ストレスの増加を危険視した。更に、犯人との会話でも人質を助けたいという意志を全面的に出し、人質が抱える不安を少しでも取り除こうとしていた。


 だが、結果がこうなってしまった以上は仕方ない。本来の直霊の仕事をしなければならないということだ。霊魂術が発現した瞬間というのは、本人も止める方法を知らないので、暴走状態と言っても良いだろう。つまり、人質の子には少し痛い目を見てもらうことになる。


 灰音は自身の霊魂術を発動させた。灰音が持つ霊魂術の名は『れいえん』。系統はさきみに分類され、自分の精神思考を加速させる力を持っている。簡単に言えば、一時的に賢くなる術だが、その恩恵は学習能力強化だけでなく、情報処理能力の大幅上昇を生み出す。


 それはまさに、十九世紀初頭にラプラスが提唱した『物体の物理状態を完全に把握、そして分析することができれば、全ての運動を予測できる』という考えを体現するような霊魂術と言えるだろう。


 また、怜悧炎魔のもう一つの大きな利点として、精神思考が洗練されるため、精神妨害の影響を無効化できることが挙げられる。


 実際、怜悧炎魔によって、灰音は人質の子による感情伝播を防御することができた。その後、正確に調整された灰音の一撃によって、人質の子は気絶し、霊魂術の暴走は事なきを得た。


 しかし、周囲を確認すると、焔と犯人は負の感情流入をもろに受けて、意識が朦朧としている。もう少し長く精神干渉を受けていたら、廃人となって元に戻らない可能性もあっただろう。怜悧炎魔による防御が間に合って、本当に良かったと言える。


 灰音は犯人が動けないように拘束した後、人質の子を抱えて、民家を出る。外には、不安気な表情の警察たちが待ち受けていた。


 基本的に霊魂術の効果には距離減衰が存在する。そして、警察の様子から、民家の外までは特に影響がなかったのだろう。おそらくこの距離であれば、精神に少し違和感を覚えたとは思うが、普通の人間では気にならない程度のものだったということだ。


「灰音さん、結果は?」


 たちばなが即座に尋ねた。


「犯人は制圧した、この子も無事」

「意識を失っているように見えますが?」


 灰音が抱えている人質の子の様子を見て、橘が疑問をぶつけてきた。


「霊魂術が発現して、暴走状態になったから、私が気絶させた。今は安全だよ」


 灰音の言葉に橘はひどく驚いた。当然だ。事件中に霊魂術が発現するなど、警察も初耳の現象であるだろう。


「とりあえず、霊魂術の影響で犯人と焔の意識が曖昧になっているから、今は安静にさせた方が良い。状態は直に回復すると思う」

「それはわかりましたが、人質の子はどうするのですか?」

「霊魂術が発現した以上、直霊本部に連れて帰らなきゃいけない」


 人質の子は霊魂術の発動が安定するまで、直霊で保護観察することになるだろう。その後どうするかは、本人以外が決めることではない。


「橘君。悪いけど、この子を直霊本部まで連れていってくれない? 私は焔たちの面倒見ておくから」


 精神干渉を受けてしまった人への対処は、警察の専門外である。つまり、この場では灰音が最適と言う他ない。


「わかりました。自分にお任せください」

「助かるよ。この子、しばらくは目を覚まさないと思うから安心してね。直霊本部には、私から話を通しておくよ」

「了解です」


 灰音は橘に人質の子を預けた。そして、橘はパトカーの後部座席に人質の子を優しく乗せた。


「それでは、自分は失礼します。本日はありがとうございました」

「うん、こちらこそありがとう。また、ななさんにもよろしく言っておいて」

「はい、伝えておきます」


 橘はパトカーに乗り込み、現場を去っていく。その後、灰音は直霊本部への連絡を済ませ、少し息を吐いた。後は、焔が回復すれば一件落着と言えるだろう。

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