第3話 「腹をくくって」
宮廷官舎に案内され、初めて一人になったその夜、蓮は硬い寝台の上に腰を下ろし、深く息を吐いた。まだ薄明かりの魔石灯が部屋を照らしている。窓の外には、異世界の月が淡く浮かんでいた。
(……ここが、僕の部屋、か)
椅子も机も、寝台も、どこか質素で、整いすぎていて、無機質だった。“監視下”という事実を思い知らされるには十分だった。
ふと、審問官ヴァレリオの声が胸の奥でよみがえる。
――「藤村蓮。
汝が本当に“農学士”を名乗るのであれば、三ヶ月以内にその証を立てよ。
成果を示せれば、更に三ヶ月の滞在を許す。
何も示せぬ場合……国外追放とする。」
蓮は、目を閉じて額を押さえた。
(……三ヶ月以内に証明。できなければ追放……)
少しでもミスをすれば、あっという間に帰る場所もなくなる。いや、“帰る場所”など、もうどこにもないのかもしれない。自分の世界に戻れる保証など、どこにもなかった。
◆
蓮は机の上に置いた“芋類百科事典”を、そっと開いた。写真がきれいに並ぶ見慣れたページ。だが ―― 胸は妙に締め付けられた。
(……芋類が、この国にはない)
この世界の食堂で出された料理を思い返す。根菜は大根と人参、カブのようなものはあった。しかし芋だけは影も形もなかった。
(じゃがいもも……サツマイモも……山芋も……里芋も……存在しない)
言われたときは理解が追いつかなかった。だが今は、静かに重く、現実としてのしかかってくる。蓮の心の中には、ぽっかりと穴があいたようだった。芋は、蓮にとってただの食材ではなかった。大学時代の研究テーマであり、家庭菜園での喜びであり、仕事のストレスを忘れさせてくれる、ささやかな趣味だった。
芋を育てる季節の匂い、
芽が出たときの嬉しさ、
収穫するときの土の感触、
そして、蒸したときのあの香り。
それらすべてが、蓮の“アイデンティティ”そのものだった。
(それが……この世界では無意味なのか)
なぜだか、胸の奥がじんわりと痛んだ。芋のない世界 ―― それは、蓮にとって「自分の居場所がない」という宣告にも等しかった。
◆
外出時には門番に申告せよと言われた。
エリシアが「毎日訪れる」と告げた。
この部屋には、一応鍵がついているが ――
それは蓮に“自由”を与えるものではない。
(僕は、本当に異邦人なんだ……)
ぐっと、胸に何かが込み上げる。
(信じてもらえない……当然だ。魔法なんて知らないし、農学を語ったって、土魔法も使えない。この世界の人から見れば、僕は“空っぽの学者”だ)
審問官の冷静な視線がまざまざと思い出された。あの視線は、蓮という存在をひとつの“案件”として捉えていた。冷たくはない。だが、個人として扱われたわけでもない。
(……ここで成果を出せなければ、僕は捨てられる)
怖かった。その恐怖は、胸の中にしずかに積もり、蓮をじわじわと締め付けた。
◆
蓮は本を閉じて、寝台に倒れ込んだ。天井を見つめる。
(情けないな……異世界に来たからって、すぐ落ち込んでどうするんだよ)
自分を叱咤しても、気持ちはすぐには上向かない。しかし、心の奥深くには、まだ消えていない火があった。それは、芋への情熱とも、農学への愛着とも言えるもの。
その火は小さい。だが――確かにそこにあった。
(芋がこの国に存在しないなら……まずは探してみよう)
その考えが頭をかすめた瞬間、蓮の胸の奥に、ほんの少しだけ暖かいものが差し込んだ。ヨーロッパでも昔は芋類は存在しなかったが、今ではジャガイモは当たり前の食材だし、サツマイモやヤマイモもアジア系食材店で売っていることがあることを、蓮は思い出した。
(とにかく、何か一つでも……成果を示せれば、三ヶ月は確保できる。
それなら、まずはこの世界でもできることから始めよう)
どこかこの国の外から芋を入手できるかどうかは、まだわからない。しかし蓮の心には、“自然の力を使った農法なら、この国でも通じるかもしれない” という、わずかな希望が芽生えはじめていた。
彼は机に向かって座り、紙とペンを取った。
(今の季節は……まだ早春で、地温は低いはず…… だったら、必要なのは――)
脳裏に、日本で学んだ知識が浮かび上がる。
(踏込温床だ)
落ち葉、藁、家畜ふん ―― 自然の力で“発酵熱”を生み、早春でも苗を育てられる仕組み。魔法のない蓮でも、使える技術。
(これなら……いけるかもしれない)
胸の中の霧が、少し晴れた気がした。気がつけば蓮は、さっきまでの重苦しい表情をわずかに緩めていた。
(まずは一歩。芋じゃなくてもいい。二十日大根でもいい。成果を見せて、ここに残って……いつか芋を育てられれば……)
そう思った瞬間、蓮はようやく布団に潜り込んだ。不安はまだ消えない。だが ―― その隙間に、小さな希望がそっと芽を出していた。
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