初雪 下




       〇



 くしっ、とくしゃみがでた。

 誰かが僕の噂でもしているのかな、とか、優貴の風邪がうつったのかも、なんてことを想像しながら、寒暖差がはげしくなってきた気候を前に、僕は人間の力の及ばなさを痛感するしかなかった。

 もし神様がいるのならどうしてこんなにも、ものごとの移り変わりが激しい世界を創ったのだろう。


”神”を信じていないくせにそんな究極テキトーなことを考えながら僕は、優貴の風邪薬を買ったあとの、帰りがけにいた。そういえばさっきドラッグストアで薬を選んでいたら、春のあの【合コン】のときみかけた、優貴とおなじ映像研究サークルの(たしか部長だった)男性と、ばったりと出くわした。


 その男性は黒縁の太いフレームの眼鏡をかけていて、長い全身にスーツを纏(まと)っていた。

 このときの僕はまだ就活とは無縁でいたいというか、”そういうもの”とは、距離を置きたかった。

 だから僕は失礼のないように、極力、彼には気付かないふりをして、買い物を済ませようとした。

 が、もう手遅れだった。男性は僕と目が合うやいなや、こつこつと革靴を鳴らして近づいてきた。


「キミは、えっと…、それより何か探してる?」、と男性は早口にそう言って、そう言ったかと思えば、僕が手に持っていた走り書きの買い物リストに、骨ばった顔を近づけてきた。

 その、やたらと大人びている目もとは、まあまあ優しそうだけど、

 ぐいぐいくるなこの人。…

 面倒だな。

 そう思った矢先、「達筆じゃん! オレ字綺麗な人尊敬するわ」と言われて、僕は警戒をといた。「これっすか」、と、【風邪薬、スポーツドリンク、領収証】、とかんたんに書いた買い物リストのメモ紙を、僕は胸の前でひらひらと揺らした。

「見せて見せて見たい見たい」とはしゃがれて、それだけで僕は気を良くしてしまった。

 

「あ、どうも沼田です。キミはえっとコンパのときの書道サークルの子だ。そりゃ字が上手いわけだ。うわさは聞いてるよ、節野ちゃんと付き合ってるらしいね、俺ね、あの子に告ったんです、コンパの間に、一瞬でフラれたけど、「彼氏とかいるの?」って聞く余裕さえなかった、俺あのとき酒飲みすぎて、酔っちゃってたから、第一印象が悪くなってたのかも、あはは、まあいいや、これもなにかの縁でしょ、教えといてあげる、俺はいまあの大学で三浪中で、夢は映画監督なの」


 と、間髪を容れずに、噛むこともなく、沼田先輩はすらすらと何かを読みあげるように喋った。

「おお」、と思わず僕の口から声がでた。

 それからしばらくのあいだ僕たちは、「優貴が風邪をひいてしまった」、という話を皮切りに、あたり障りのない会話をして、時間をつぶした。沼田先輩は妙に親切で、風邪薬を一緒に選んでくれたりした。

 優貴はリンゴが好きだということも教えてくれた。全部優貴のための世話焼きだろうな、でも、少しありがたい、とも思いつつ、僕は買い物かごにリンゴをごろっと落とした。

 

 ドラッグストアを出ると、僕が入店する前よりも、あきらかに外が寒くなっているように感じた。

 朝の太陽の光が気持ちいいと感じるくらいで、僕はすこし口の中におかしな味をみつける。

 先輩は、「まだ時間あるなら自販機よらない?」、と、ポケットから高価そうな長い財布をだした。

「おごるよ話聞いてくれたお礼」、先輩は千円札を一枚、自販機に入れて、微糖のコーヒーのボタンを連打した。するとがこんがこんと、缶が三つ落ちてきた。

「まあいいや、はい」、キミと節野ちゃんのぶん、と先輩は缶コーヒーを二本、僕に手渡してくれた。


 缶は温かかった。いや熱いくらいだった。でも悴(かじか)みかけた手にはそれが僥倖だった。

「あ、ありがとうございます、優貴さんにも渡しておきます」僕は本当にこの時は、せっかくの先輩の好意なのだから、帰ったらちゃんと缶コーヒーを優貴に渡してあげなきゃと思っていた。

「さん付け!」

 先輩が笑ってコーヒーを飲むタイミングを見計らい、そのあとに続いて僕も飲んだ。

 うまかった。久々に僕は優貴以外の人と、こうして、長話をしながら楽しい時間を過ごしている。

 でもこの時間が素直に楽しいのは、絶対に口にできないけれど、先輩が優貴にフラれたからだ。

 

 もしも先輩が優貴と付き合っていて、僕だけが蚊帳の外だったらどうするだろう。

 僕は先輩みたいに明るく振る舞えるだろうか。

 僕だったら、嫉妬心で、学内で先輩を見かけてもきっかりと無視をしてしまうかもしれない。

 なんて。考えすぎだろうか。


「先輩はあの空に、星、みえます?」、と、僕はこのとき、本当に無意識にそんなことを言っていた。

「え、朝だけど、待てよ。ああ、そういうこと。うん、見えるよ、見える。やっぱいいねキミ、面白いよ」

 

「優貴の言葉の受け売りなんです」、なんて言えないけれど、たしかに先輩には見えているのだと思った。今の青空に、いくつも。今日の朝日とともに見えなくなってしまった夜空の星が、いくつも。

「天才ですね」

「いやいや、キミってまだ一年生でしょ」

「はい。映画監督の夢叶うといいですね」このときの僕の、その、熱い気持ちと言葉は本心だった。

「なるよ。まずは”現場”に就職して、それになれなかったらマジで三浪ぶんの学費が水の泡だし」

 

 最後に、先輩がコーヒーをぐいっと飲むのを真似るようにして、僕もコーヒーを飲みほした。

 僕も、先輩の自由さが欲しいと思った。

 僕だって、いつまでも将来のことを遠ざけたままではいられないのかもしれない。

”変わらず”には、いられないのかもしれない。

 空になったコーヒーの缶は、初めの熱なんて嘘だったように、寒さを吸収してしまう。いともたやすく、ただの冷たい金属になり、みるみるうちに僕の手まで冷やしていく。「ありがとうございました」


「またね」


 青信号の点滅に走っていく先輩を見送る僕は、やっぱり優貴に缶コーヒーを渡さないことを決めた。

 


       〇



 帰宅後、玄関に脱いだ靴をそろえて置く。消臭スプレーを吹きかけたあと、廊下にあがると、くつした越しにでもフローリングのつめたさがやわらかく伝わってきた。

 くしっ、とまたくしゃみが出て、そういえば僕と優貴は「付き合っている」、と噂されているのだなと、さっきの先輩の言葉を思いだした。周囲からは”カップル”だと思われているのだろうか。

 そういう気恥ずかしいことを、初めて考えさせられた。

 不釣り合いなカップルだと思われていないかなどと、僕はすこし、卑屈な気持ちにおそわれる。

 

 ひとまずは、買いもの袋を廊下に置いて、僕はたんたんと洗面台にむかった。

 手の甲で、蛇口のレバーを押すようにして、まわす。

 僕が、優貴のように風邪をひいたり、季節性のインフルエンザに感染するわけにはいかない。

 手洗いは徹底しようと、どことなく幼稚なきまりごとを心に留める。

 もしかすると優貴の風邪は長引くかもしれない。僕が動けなくなったら誰が優貴の看病をするのだ。

 そんなことを考えていたら、「つめた」、と指に触れた流水が冷たくて、びくりと体がしりぞいた。

 そしてその瞬間、このするどく冷たい水を、猛暑の間、自分ががぶがぶと飲んでいたという事実をほんとうに信じられない気持ちになった。

 今年の春以降はじめてお湯をだして、手を洗うと、その心地よさに感動してしまうほどだった。

 

 先輩にもらった缶コーヒーは、とりあえず自分の外出用のカバンにしまっておいた。

”罪悪感”を忘れるため、僕はすぐに優貴の顔を見ようと思った。買ってきたリンゴをちゃんと冷水で洗い、かんたんに包丁で剥いて、切りわけた。優貴が笑うかなと想像して、何個か耳に見立てて赤い皮をのこして、兎の形にきってみた。

 

 優貴の風邪はべつだん悪化してはいなさそうだった。

 リンゴを載せた皿を手に持って、リビングへ行くと、まっさきに優貴の安らかな寝顔が目に入った。 それで僕は、唾をのみこんだ。自分の喉が、ぎゅっと鳴った。広いスペースの真んなかに、それはもう無防備に、大事に敷かれた布団の上に、おとぎ話のお姫様のように、胸の上に両手をにぎって優貴は眠っていた。

 その汗ばんだ白い顔に、寝返りを打ったのだろう何本かの髪のすじが貼りついていた。

 僕はそれだけが気になって、ゆびでそっと優貴のほっぺたから髪の毛をはらいのけた。

 

 そして立ち上がった瞬間、僕はテーブルの上にあった、優貴の愛用のカメラに気がついた。

 僕はなぜかすばやい動作で、リンゴを載せた皿を、テーブルの空いた所に、音をたてずに置いた。

「ゆ、ゆき……。ゆきー」

 僕はそう、小声で呼んでみた。優貴の口からは、かわいい寝息がかえってくるだけだった。

 一定のリズムで上下する、優貴の豊かな胸を、不躾にじっと見つめる。本当に優貴は眠っているのか。…

 もう少し待とう。

 テーブルの上には他にも、飲みかけの水が入ったコップがあった。その横には、数枚のプリントが並んでいる。それは優貴が風邪で休んで出られなかった講義(僕はたまたまその講義を取っていなかった)で、誰かが板書をして、親切にコピーをしてくれたものだった。僕は学内の食堂で、それを受け取ったのだが、優貴にもそういう女友達がいるのだ。すごく微笑ましい気持ちになる。

 それなのに。…

 でもなあ。…とも僕は思ってしまうのだ。

 自分の笑った口元から、すうっと、悪人のように力が抜けていくのを感じる。

 その女友達といまの僕には、優貴にとって、一体どれほどの差があるというのか。

 僕は優貴の”彼氏”ではないのだ。

「ゆき」、ともう一度しっかりと呼んで、優貴の眠りが深いことを確認したあと、僕はテーブルの上の優貴のデジタルカメラに手を伸ばした。優貴は一度、大学生対象の写真コンクールで優秀賞を獲ったことがあった。(それは朝日の逆光でとおくに伸ばした手に見える鳥の群れの写真だった)。

 そんな優貴が、普段からどのような写真を撮っているのか。湧いてでる興味を抑えようとしたが、このときの僕にはそれすらも難しいことだった。

 電源を入れると、明るい画面に、開けそうなフォルダがぽつんと一つだけあった。

 あれ、と変に思った。フォルダを複数に分けたりしないのだな、と思いつつ、僕はそのたった一つ中央に固定された、無名のフォルダを開いてみた。

 すると撮られた写真の、個々のファイルに繋がった。

 と、思ったけど、実際に開かれたファイルは、一つしかなく、それはつまりこのカメラに保存された写真は、たった一枚だけだという事実に、僕は意味もなくまばたきを繰り返すしかできなかった。

 そうして僕はこの瞬間にようやくとてつもない”罪悪感”をおぼえた。

 画像名は『今』となっていた。

 ここから先は絶対に見てはいけないし知ってはいけない。そういう秘密が隠されている。

 そういう怖い予感がさあっと僕の脳を灰色の電流で満たしていく。

 僕はびっと、冷たい反射のような挙動で、しかし熱く震える指でファイルを開いた。

 僕の目に飛び込んできた画像には、「自分自身」が映っていた。

 画面一面に。…

 鮮明に思いだせる。あの日、僕が優貴のコップと自分のコップを間違えて”間接キス”をした日の一瞬だ。僕の顔は赤くて、目は半分閉じていて、口元が歪んでいて、頬の筋肉は固まっていた。

 いっきに僕の体が熱くなった。エアコンのリモコンを手に取ってぴぴと暖房の温度を二度下げた。

 どうして。…

 なんでこんな変な写真を、しかも一枚だけ残しておくのだ。優貴は、何を考えているのだ。何を想って、”カメラからこの一枚以外の写真を消した”のだ。

 今すぐに僕の手で、この最後の一枚も消したい衝動にかられた。でもそんなことができるはずがない。そんなことをすれば僕が勝手にカメラのデータを盗み見たことがばれてしまう。それに優貴がまだ悪意を持って、この顔写真を記録に残していたなんて、そんなことまでは判らないのだ。

 僕は一旦、なにもかもをぎゅっと我慢して、冷静さを、取り繕ってみた。

 丁寧に、『今』という画像のファイルを、最初の無名のフォルダにもどして、慎重に電源を切った。

 画面が暗くなったとき、ふと自分を呼ぶ優貴の声が聞こえた。

 僕はものすごい速さで首を、優貴のほうに向けた。が、優貴はまだ気持ちよさそうに、眠っているようだった。それでも、その小さい口は動いていて、たまに吐息になったり、声になったりしている。

 僕は息を浅くしながら、横たわる彼女を見おろす。

 寝言だろうか…、


 そうやって、安心しようとした瞬間、優貴の口がふたたび僕の名前を呼んだ。

 それから、

「――は、いま、何をしていますか?」と、はっきりと言った。

 その声は今まで聞いたことがないくらいに、なんだか悲しそうで、なぜか遠のいて聞こえる。

 

 優貴の顔がちょっと引きつっている。

 その顔がまた僕の名前をちいさく呼んだ。

 その光景はどことなくだけれど、

”僕と別れた後の優貴のこれから”を、僕の脳裏にうかびあがらせた。

 これから、

 これから先のどこかで、今は予想できない事情で、僕と離れ離れになってしまった優貴が、その別れを惜しんでいる。(自分で言うのはあれだけど)それで、とっくに離れているけれど、この世界のどこかにいる”僕”という人間を思いだしながら、「いま、何をしていますか?」と懐かしむように、今みたいな小さな声で遠くに話しかけているのだ。

 僕は怖くなってなんどか真横に頭をふった。

 だから。

 というわけではない。僕は卑怯なことをしてしまった。

 優貴はまだ眠っている。

 そんなものは僕の勝手な憶測でしかないのだけれど。…

 そういう、わからない将来のことを考えてみると、一瞬でどっと体が重たくなったようになる。

 かるくめまいがして、僕は、行き場のない指で意味もなく、兎のリンゴを二個向きあわせた。

 熱は、まだ下がらないのだろう、優貴のつるんとした額に、汗が流れた。風邪とたたかっている。

 なんだか僕も、逃げてはいけないような気持ちになる。

 優貴のカメラを、テーブルのもとあった位置にもどす。

 もどす。

「僕は…」、と口にして、一所懸命に思いをはせてみる。まずは、頑張る。無事に二年生にあがる。

僕の手が震える。書道のサークルで、なんでもいい、優貴みたいに、賞を獲れるような、何か作品を書きあげたい。それからちゃんと講義に出席する。サボらない。卒業まで続ける。それから、あの沼田先輩は…まだそのときには大学にいるのか判らない。けれどいつか何かを成す気がする。

 本当に映画監督になってしまうかもしれない。


「……………」

 そのとき僕は、なんだろう。…

 ひとまず、勝手にカメラのデータを見てしまって、ごめんなさい。えっと、それ以外は。…

 何も浮かばないな。なんでもない、何の変哲もない、だって、書道家になって食べていけるほど、僕には才能が無いし…なんでもない仕事を、僕は、生まれ変わってしまったように、一生懸命にギラギラとした目で、やっているのかもしれない。それで、そんな僕の傍に優貴はいてくれるのか。

「わからないです」

 僕がそう、自信なさげに言うと、優貴の長いまつげが動いた。


『いま、何をしていますか?』


「でもそうだなあ、とりあえず今は、優貴のそばにいるから」

 優貴がいま夢のなかであるのを、良いことに、僕はたった一時の気分で丁寧語をなくしてみる。

 僕が微笑むと、まるですでに目をさましているかのように、優貴の顔もにこりと穏やかにみえた。



       〇



「なんでこんな寒いの」


「寒いですね」


 最近はコートのポケットに手を入れていないと、指が芯まで冷えてしまうほどの、寒さのきびしい日々が続いている。

 コンビニからの帰り道、凍ったように冷たい親指を握りこみながら、僕は優貴と一緒に「寒い寒い」と言いあって、一歩一歩をふみしめてあるいた。

 

 もうすでに深夜を回っていた。

 だから二人の声ははりつめて、ちらほらとイルミネーションがともった街中に響いた。

 もうそろそろ”ハタチ”になろうとしているのに、二人のやりとりはまだどことなく子供っぽい気がする。

 それでも、「寒い寒い」と言いあっているだけでも、痛いくらいの寒さがまぎれる。

 なんだかそういう嘘というか、おまじない的な”強がり?…”は、大人になっても必要な気がした。

 僕はふと後ろをふり向いていた。

 もしそこに誰かいるのだとしたら”オトナ”になることを恨んでいた幼い自分のような気がする。

 が、誰もいなかった。

 でも自然と寂しさは感じなかった。

「どうした?」

「いやいや、なんでもないんです」


 久々にコンビニに寄ったのは「今日の夜ごはんはすこし贅沢をしよう」、と優貴が言いだしたからだ。

 僕が初めて書道コンクールで最優秀賞、を…、目指していたのだが…特別賞を取ったということで、少し高いワイン(『お酒は二十歳になってから』という文句が心苦しいが…』)や、生ハム(なぜか今大学の仲間内で流行っているから)や、カットフルーツのリンゴや、ポテトチップなどを買った。

 僕はすでに温かいアパートの部屋に帰った気分で、二人でワインに気持ちよく酔って、特別賞を獲った余韻に浸りながら、いつもより饒舌な優貴としゃべりながら、眠たくなる自分が、想像できた。特別賞を獲ったとき、優貴が「君の字のフォントが欲しい」、と言ってくれた。僕は素直に喜んだ。それを思い出すだけでも、幸福感で頭がしびれて、イルミネーションがより綺麗になって見える。

 

…が、ふと、「あのとき、はやく冬になればいい、みたいなこと言ってたの覚えてる?」と、優貴が、いつにもまして真面目な口調で言うものだから、僕の緩み切っていた心は一気に緊張してしまった。


「あ、べつに、深い含みはないよ。でもさ、言ってたでしょ、冬になればいい…って」

 たしか、


「はい、言いました」

「今はどう思う?」

 そう、言われて、僕はすごくすごく寂しくなった。ポケットに入れている手がみるみる冷たくなった。誰かの温もりが欲しかった。でもそれはきっと目の前の、優貴という女性でなければならない。

「ちょっと手をつなぎませんか」、そういえばこの頃、優貴と手を繋ぐことをよく忘れるようになった。

「いいけど」、優貴はふっと吹きだした。

 

「話の続きですけど、今はですね、夏になってほしいと思っています」

「え」

「薄情な、人間だと…、お思いですか」

「うん、すこし、思う。だって、君がそうやって、時の状況次第で、気分が変わってしまうのなら……」

「僕はいつか――」、と、僕もその先を言うのは、かなり躊躇われた。けれど、逃げていてもだめだと思った。だっていつか、来るのだ、将来というものは、近づいている、ならば悩まないといけない。

「でも、この場合は違うんですよ、優貴さん。僕はあの暑かった夏には、はやく冬になればいいと言いました。それなのに、早くもこう冬に近づくだけで、夏がいいと言ってしまうし、そう信じてしまう」

「そう、そこなんだよ」、と、優貴の吐息はより白くなり、その声は小さく、泣く寸前のように震えた。

「わたしは、君が、わたしを好きでい続ける、その気持ちを忘れない、って言ってくれたこと、ずっと覚えている。信じている。だから…だから怖いんだ」

「僕が、状況次第で、気分を変えてしまうような人間だからですか」

 優貴はだんだんとゆっくりになってきた足の歩みを止めて、頷こうかどうか迷っているようである。

「ごめん」

 弱々しく言う優貴の背後に、何かが広がった気がした。優貴は本当にかわいいし、優しい。「口だけ」というような男がたくさん近づいて、もしかしたらその数だけ裏切られてきたのかもしれない。


「優貴さん」、そういえば優貴とつないでいた手が、ほんのりと温かくなってきた。

 僕にはそれが何か重要な、意味のあることのように思えた。

「僕は変わりませんよ」、僕はこのとき、優貴が風邪をひいて、眠っていた日のことを思い出していた。優貴は、僕が間接キスをして本気で恥ずかしがっていた顔写真を、記録していた。夢の中で、僕との別れを惜しんでくれているように、「いま、何をしていますか?」、と、語りかけてくれた。

 それがもし、”僕だけ”が信じたい、”僕だけ”にとって都合のいい未来だとしても、

「わたしは、君を信じたい。このさきも、君は自分を「僕」と言ってくれる? ずっと丁寧語で話してくれる? わたしが風邪をひいたとき看病してくれる? あの日の気持ちを、ずっと忘れない?…」

「優貴さん…」そうじゃないよ、と僕はコンビニの袋を落とさないように、けれど、両手で優貴を抱きしめた。強く。優貴の匂いが近くでして、僕は一瞬で、どきどきとして、だからこそ安心をした。


「えっと、僕はですね、たぶん寒くなった今になって、夏のほうがよかった、なんて、手のひらを反してしまうような、軽薄者なんです」、僕がそう言うと、優貴がすこし、僕のことを手のひらで押そうとしたが、それでも僕は諦めずに優貴のことを離さなかった。「それに、僕はこの先、自分のことを「俺」と言うようになるかもしれません。いつのまにか丁寧語でもなくなるかもしれません」かすかに優貴の嗚咽がきこえる。「ですが、このさきも優貴さんが風邪をひいたら看病しますよ! 今だってあのとき優貴さんのこと好きだって思ったこと、覚えています、これからも忘れないんですよ」、と、言ってなお、僕自身でさえ、身をきり裂かれるように、不安だった。だって、何があるかなんて判らない。

 将来のことなんて。どうせ何度考えてもわからない。

 だからそうやって初めの気持ちを何度も、何度も、言いきるしか方法がないのだ。

 だから、今しかない。


「そっか……」優貴が『今』という題名を付けて、僕の顔写真を残していたその意味が、この瞬間、やっと僕にも見出せたような気がした。

 そっか、

 すこしして、「ほんとに?」と、優貴はいちど僕の目を見つめた。僕は恥ずかしくてその目を見つめ返せない。けど一生懸命に逸らさないようにした。優貴に何かが伝わったのかもしれない、優貴のほうからも強く抱きしめてきた。優貴の手から、がさっとコンビニのおつまみが入った袋が落ちた。

 そこでふすっと、僕は吹きだした。

 今度は僕のほうから優貴の顔をみた。


 今この瞬間に確かめたいことがある。


 僕は自分の顔を優貴に近づけた。優貴は目を瞑り、僕らの唇は触れ合った。ああ、と思った。ただ、ああ、と、熱くて、恥ずかしくて、何とも言いようがない”正しさ”というようなねっとりとしたどろどろが、気持ちよく僕の体じゅうをかけめぐった。そうして何も見えない中、鼻からふかく息を吸った。

 正しかった。

 卵の膜を割らないような感じで、僕はできるだけそっと、自分の口を優貴の唇からはなした。

「キス。二回目」、と優貴の声色はいつもの調子にもどっていた。

「どうしてまたそういうことを言うんですか」、と僕の声色も意外と明るくて、自分でも愉快だった。

 そしてひたすらに漠然と。

 

 それでいいと思えた。


 もうほんの少し部屋に戻りたくなくて、僕らはアパートの近くにある、児童公園に立ち寄った。

 コンビニの袋には、なま物も入っていたけれど、この寒さなら全然平気だろうと判断をした。

 僕たちは手を繋いでいた。

 なんだかポケットに入れるよりも温かく感じるのは、気のせいなのかもしれないけど。…

 これからもこういう風に、冬になれば。冬でなくとも。ふたりで手を繋いでいけたら幸せだ。

 なんて。

 幸せは言い過ぎだろうな。

 べつにブランコにのって漕ぐわけでもない。滑り台を滑るわけでもない。ただそういう遊具を眺めながら、僕はそこで幼いころの自分が遊んでいるような光景を、まぼろしに見た。優貴もそうだったのかもしれない。「小さい頃の夢はなんだったの」、と急に優貴が聞いてきたけれど、僕はおどろくほど瞬時に「仮面ライダー」、と答えられた。「かわいいね」、と優貴が、「でも大事だよね」、と続けた。

「優貴さんのほうがかわいいですけどね」、と僕は自分でも珍しくおどけてみた。

 あはは、とその”かわいい”のベクトルの差に優貴も子供らしい、かわいらしい笑い声をだした。


「そうだよね! いつか別れてしまうから、とかじゃないよね」

 その、優貴の『いつか別れてしまうかもしれないけど』、という言葉には、聞き覚えがあった。

 優貴と初めて出会った日、それを思うだけで、あの合コンの日にもどれそうな気さえした。

「はい」

 そうおだやかに返事をした僕は、目が覚めるような冬の空気を、味わうようにして大事に吸って、

「そんな将来が訪れるとか、訪れないとか、わからないことで比較しあうから、もっとわからなくなって…不安になるん…ですよね。立ち位置。僕たちはここに立ってます。ちゃんと、今が大事です!」

 僕はそれを、自分自身に言い聞かせるように、最後まで言い切った。

 そしてそれは。…

 友達でも恋人でもないような、いまの僕たちの尊い間柄を、言い当てているようにも聞こえた。

 ふわふわと。

 そのとき空から何かが降ってきた。

 見上げると、自分の白くなった吐息がのぼっていき、反対に、ちいさい粒が降ってくる。

 まもなく雪だとわかった、「ゆきですよ」、とも僕は口にした。

「ゆき、ゆき」、と、彼女がしきりに自分の胸元を指さしている。


 あ。…


 いや。…


 うん。…


 と、雪が、降る。

「いや、べつにさ、もう僕たち恋人同士でよくないですか?」

「うん! それがいい。これからもよろしくお願いします!」

 この瞬間、きらきらと口いっぱいに甘い味がひろがった。

 今だけはこの瞬間に降った雪も、街のイルミネーションも、ふたりを祝福してくれている気がして、

 いや言い過ぎではない。そう思った。僕らは幸せだ。ほんとうに。

 だってこんなにも未来が怖くない。偶然、「帰ろう」「帰りましょう」、と二人の声がかさなった。

「これから、もっと寒くなりますね」、僕は初めて優貴の頭を手のひらで大切に撫でた。

「でも、いまのわたしもいいでしょ」、優貴の大きな瞳がこれまでで一番輝いてみえる。



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