第9話「根の記憶」
階段は、下るほどに狭くなった。
いや、狭くなっているのではない。私の体が、大きすぎるのだ。人間の体は、この場所に適していない。ここは、根の領域だから。
二十段目あたりで、私は膝を曲げて進まなければならなくなった。五十段目で、這いつくばった。百段目——数えるのをやめた。数字は、この深さでは意味を持たない。
しかし、苦しくはなかった。
むしろ、懐かしい感覚があった。まるで、子宮に戻っていくような。生まれる前の、暗くて、狭くて、しかし完全に安全だった場所へ。
階段が終わった。
私は洞窟のような空間に出た。しかし、洞窟ではない。これは、根の部屋だ。
天井も、壁も、床も、全てが根でできている。太い根、細い根、無数の根が絡み合って、巨大な球体の内部を形作っている。そして、全ての根が、脈動している。心臓のように。
部屋の中心に、祭壇のようなものがあった。
いや、祭壇ではない。それは、切り株だ。巨大な、古い切り株。直径三メートルはある。表面は滑らかで、年輪が刻まれている。
私は年輪を数えようとした。しかし、途中で諦めた。百、二百、五百——数えきれない。この木は、千年以上生きていたのかもしれない。
『近づけ』
ローズマリーの木の声が、根を通して響いてくる。
私は切り株に近づいた。手を伸ばし、表面に触れる。
瞬間、記憶が流れ込んできた。
◇ ◇ ◇
私は、木だった。
いや、私ではない。別の誰かが、木だった。しかし、その記憶が私の中に流れ込んでくる。
最初の記憶は、種だった時だ。暗い土の中で、殻に包まれて、じっと待っている。何を待っているのか、わからない。ただ、時が来るまで。
雨が降った。水が土に染み込む。殻が柔らかくなる。
時が来た。
根を伸ばす。下へ、下へ。水を探して。栄養を探して。
芽を出す。上へ、上へ。光を探して。空を探して。
成長する。幹が太くなる。枝が伸びる。葉が茂る。
季節を経験する。春の温もり、夏の激しさ、秋の寂しさ、冬の静けさ。
そして、人間を見る。
最初の人間は、狩人だった。弓を持って、鹿を追っていた。木の下で休んだ。木は、初めて人間の体温を感じた。
次の人間は、恋人たちだった。木の下で抱き合った。木は、初めて人間の愛を感じた。
その次は、戦士だった。血を流して倒れた。木の根元で死んだ。木は、初めて人間の死を感じた。
何百年も経った。
人間は来ては去り、生まれては死に、愛しては別れた。木は、全てを見た。全てを記憶した。根の中に、樹皮の中に。
そして、ある日。
斧が、幹に食い込んだ。
痛みではない。木に痛みという概念はない。しかし、何かが失われていく感覚。自分の一部が、切り離されていく。
木は倒れた。
しかし、根は残った。地下深く、根は生き続けた。
そして、根は待った。次の木を。次の命を。
◇ ◇ ◇
記憶が途切れた。
私は切り株の前に膝をついていた。涙が流れていた。なぜ泣いているのか、自分でもわからない。しかし、涙は止まらない。
『この木は』ローズマリーの声が言った。『千五百年前、この地に生えた。そして、八百年前に切り倒された。しかし、根は生き続けた。この根が、今、この庭の全ての植物を支えている』
私は根の壁を見た。無数の根が、ここから伸びている。地上の庭へ、全ての植物へ。
『この根は、記憶の貯蔵庫だ。千五百年分の記憶。雨、風、人間、動物、喜び、悲しみ、生、死。全てが、ここに保存されている』
『そして今、お前は、この根に繋がる』
切り株の中心が開いた。
違う、開いたのではない。最初からそこに穴があったのだ。ただ、見えなかっただけ。
穴の中に、液体が満たされている。金色の液体。光を放っている。
『これは、樹液だ。千五百年分の生命が凝縮された樹液』
『これを飲め。そうすれば、変容が始まる』
私は穴を覗き込んだ。
液体の表面に、自分の顔が映っている。しかし、その顔は歪んでいる。
いや、揺れているのは水面ではない。私の存在そのものが、揺れている。
「これを飲んだら——」私は訊いた。
「私は、何になるの?」
『人間と植物の中間。境界。橋』
『お前は、両方の言語を話せるようになる。人間の言葉と、植物の言葉を。お前は、両方の時間を生きる。人間の時間と、植物の時間を』
「それは、つまり——」
『人の寿命より遥かに長い時間を、生きる。人間は百年で死ぬ。しかし、木は千年生きる。お前は、その中間。おそらく、三百年、四百年』
私は息を呑んだ。
三百年。四百年。
それは、望んだものだろうか。それとも、呪いだろうか。
『しかし』木は続けた。『お前は孤独ではない。なぜなら、全ての植物と繋がるから。彼らの声を聞き、彼らの感覚を共有する。お前は、一人であり、同時に何千でもある』
私は庭を思った。地上の庭。カモミール、ラベンダー、ローズマリー、レモンバーム。彼ら全てと、繋がる。
それは、孤独だろうか。それとも、最も豊かな繋がりだろうか。
『選べ』木は言った。『最後の選択だ。飲むか、飲まないか』
私は切り株に手を置いた。
木の記憶が、再び流れ込んでくる。しかし今度は、もっと古い記憶。千五百年前よりも古い。
種になる前の記憶。
親木の記憶。その親木の記憶。さらにその前。
記憶は、どんどん遡る。
最初の木まで。世界に、最初に生えた木。
その木は言った——いや、思った。言葉より前の思考で。
【生きろ。根を張れ。光を求めよ。そして、次に繋げ】
それだけだった。
シンプルで、しかし絶対的な命令。
私は、自分の血を思った。
祖母の血。祖母の娘——私の母の血。そして、私の血。
母は、祖母から何を受け継いだのか。庭の才能は受け継がなかった。しかし、別の何かを受け継いだ。優しさ、忍耐、そして——受容する力。
母は、一度も、自分の父について訊かなかった。いや、訊いたのかもしれない。しかし、祖母が答えなかった時、それ以上は追及しなかった。
それは、諦めではなく、信頼だったのだ。祖母が話さないのには、理由がある。その理由を尊重する。
そして、私は母から何を受け継いだのか。
受容する力。そして、もう一つ。
選択する勇気。
私はカモミールを思い出した。
七歳の時、初めて飲んだカモミール。祖母が言った。「忘れるための飲み物」と。
しかし、祖母のノートには書いてあった。本当は「忘れられることへの慰め」だと。
そして、最後のページ。「忘れられても生きていくための、勇気の飲み物」。
私は理解した。
カモミールは、三つの意味を持っている。
最初は、痛みを和らげる。
次に、忘れられることを受け入れる。
最後に、それでも生きていく勇気を与える。
三段階。
そして今、私は三段階目にいる。
◇ ◇ ◇
私は立ち上がった。
切り株に向かって、深く頭を下げた。
「ありがとう。あなたの記憶を、受け継ぎます」
切り株から、温もりが返ってきた。祝福のような。
私は金色の樹液に、両手を浸した。
冷たくはない。体温と同じ温度。いや、少し温かい。生きているものの温度。
手ですくい上げる。液体は、粘性がある。蜂蜜のように。
口に運ぶ。
舌に触れた瞬間、世界が変わった。
◇ ◇ ◇
味は、全ての味だった。
甘い。苦い。酸っぱい。しょっぱい。うま味。そして、それらを超えた何か。
土の味。雨の味。太陽の味。風の味。
時間の味。
私は飲み込んだ。
液体は喉を通り、胃に落ち、そこから——全身に広がった。
血管を通って。いや、血管だけではない。新しい経路が開かれる。体の中に、今まで存在しなかった通路が生まれる。
樹液は、全身を巡る。
指先に達する。足先に達する。頭に達する。心臓に達する。
そして、変容が始まった。
最初に気づいたのは、皮膚の変化だった。
腕を見ると、皮膚の色が変わっている。肌色から、微かに緑がかった色へ。葉緑素が、表皮に沈着している。
次に、髪だ。
髪が伸びている。いや、伸びているのではない。変質している。髪の一本一本が、蔓のようになっている。柔軟で、しかし強い。
足の指が、土を求めている。
靴を脱いだ。裸足で、床に——いや、根に立つ。足の裏から、何かが伸びていく。根だ。私の足から、根が生えている。
根は床を貫通し、さらに下へ、深く伸びていく。
そして、繋がった。
地下の根のネットワークに。
瞬間、情報が洪水のように流れ込んできた。
地上の庭の全ての植物の感覚。
カモミールは、朝露を感じている。葉の表面に、水滴が光っている。
ラベンダーは、蜂の羽音を聞いている。花に蜂が止まる。蜜を吸う。
ローズマリーは、風を感じている。枝が揺れる。葉が擦れ合う。
そして、黒い花たち。彼らは、痛みを消化している。ゆっくりと、しかし確実に、痛みを別の何かに変えている。
私は、全てを感じた。
同時に。
めまいがした。情報が多すぎる。人間の脳は、この量の情報を処理できない。
しかし、脳が変わり始めた。
新しい部位が活性化する。今まで使われていなかった部分。いや、人間には存在しなかった部分。
植物の脳。
それは、一つの器官ではない。それは、体全体に分散している。根に、茎に、葉に。全てが考える。全てが感じる。
私は、体全体で考え始めた。
そして、理解した。
これが、植物の意識だ。
人間の意識は、一点に集中している。頭の中、脳の中。
しかし、植物の意識は、拡散している。存在全体に。
そして今、私は両方を持っている。
集中する意識と、拡散する意識。
私は、二つの時間を生きている。
人間の時間——秒、分、時間、日。急いで流れる時間。
植物の時間——季節、年、十年、百年。ゆっくりと流れる時間。
私は、両方を感じた。
そして、それは苦痛ではなかった。
それは、拡張だった。
◇ ◇ ◇
目を開けた。
いや、目はずっと開いていた。しかし、今、初めて本当に見えた。
切り株が、光っている。祝福の光。
根の壁が、歌っている。歓迎の歌。
そして、私の体が、変わっていた。
鏡はない。しかし、自分の手を見ればわかる。
皮膚は緑がかっている。血管が透けて見えるが、血の色が違う。赤と緑が混ざっている。
爪が、硬くなっている。木の皮のように。
髪は——触れると、蔓だ。生きている蔓。動く。意志を持って。
私は、まだ人間だった。
しかし、もう完全な人間ではなかった。
私は、境界だった。
『よくやった』ローズマリーの木の声が言った。
『お前は、新しい管理者だ。いや、新しい種類の管理者だ。お前の祖母を超えた』
「祖母は——」私は言った。声が、少し変わっていた。人間の声に、風が混ざったような声。
「祖母は、これを望んでいたの?」
『彼女は、お前の選択を望んでいた。そして、お前は選んだ。彼女とは違う道を。それが、彼女の望みだった』
私は足元を見た。根が、まだ床に繋がっている。
「これから、どうすれば?」
『地上に戻れ。境界の崩壊を止めろ。お前自身が境界になったのだから、崩壊は止まる』
『そして、新しい循環を始めろ。お前のやり方で』
私は頷いた。
そして、階段に向かった。
登り始める。しかし、今度は楽だった。体が軽い。重力が、以前ほど私を引かない。
なぜなら、私は半分、植物だから。
植物は、上に向かって成長する。重力に逆らって。
私も、同じだ。
階段を登りながら、私は微笑んだ。
恐怖は、なかった。
これは、喪失ではない。
これは、誕生だ。
新しい私の、誕生。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます