第8話「境界の崩壊」
痛みで目が覚めるのは、三日連続だった。
しかし、痛みの場所が移動している。最初は足首、次は腕、今日は胸。痛みが体の中を旅しているのか、それとも、体全体がゆっくりと痛みに変わっているのか。
窓の外を見ると、景色が二重に見えた。
一つは、普通の庭。緑の葉、茶色の土、青い空。
もう一つは、光る庭。植物が発光し、土が脈動し、空に青い月が浮かんでいる。
二つの景色が、透明なフィルムを重ねたように、同時に存在している。瞬きすると、どちらかが消える。しかし、どちらが現実でどちらが幻覚なのか、判別できない。
私はベッドから降りようとした。
足が床につく。しかし、床の感触がおかしい。硬いはずの木の床が、柔らかい。土のように。いや、土だ。床が土に変わっている。
私は床を見下ろした。
木の床だ。しかし、触れると土の感触がする。視覚と触覚が、矛盾している。
これは、境界の崩壊だ。
中間界と現実の境界が、溶け始めている。
◇ ◇ ◇
階段を降りると、リビングに庭師がいた。
霧の体。しかし今日は、半分透けていない。ほとんど人間のように見える。服さえ着ているように見える——いや、本当に着ている。灰色のシャツとズボン。
「あなた、服を着ているの?」私は訊いた。
「いや」庭師は答えた。「お前が、そう見ているだけだ」
「なぜ?」
「境界が薄くなったから。お前の目が、両方の世界を同時に見ている。だから私は、お前にとって、より人間的に見える」
庭師は窓を指した。
「外を見ろ」
私は窓辺に行った。
庭に、三人の庭師が立っている。地上に。昼間に。普通なら、彼らは中間界にしかいない。しかし今、彼らはここにいる。
そして、さらに驚くべきことに——
門の外に、人がいた。通行人だ。彼は庭師を見ている。見えているのだ。
通行人は立ち止まり、首を傾げ、目をこすった。そして、もう一度見た。庭師はまだそこにいる。
通行人は逃げた。走って。
「まずい」私は呟いた。
「その通り」庭師は言った。
「境界が崩壊している。お前の血が、土に混ざったからだ」
「私の血?」
「お前は管理者だ。いや、管理者になりかけている。お前の血には、両方の世界を繋ぐ力がある。その血が土に落ちると、土が変質する。二つの世界の接着剤になる」
庭師は私の足首を見た。包帯の下から、まだ血が滲んでいる。
「傷は、まだ塞がっていない。塞がるまで、血は流れ続ける。そして、流れ続ける限り、境界は薄くなり続ける」
「では、どうすれば——」
「三つの選択肢がある」別の庭師が、突然背後から言った。
振り返ると、五人の庭師が立っていた。いつの間に入ってきたのか。いや、彼らはドアを通る必要がない。彼らは空間そのものだから。
五人は、円を作るように私を囲んだ。
「第一の選択」最初の庭師が言った。「契約を破棄する。中間界を封印する。お前は普通の人間に戻る」
「第二の選択」別の庭師が続けた。「完全な管理者になる。人間の感情を手放し、純粋な通路になる」
「第三の選択」三人目の庭師が言いかけた時、最初の庭師が手を上げて遮った。
「第三の選択は、後で話す。まず、最初の二つを理解しろ」
最初の庭師が、私の前に立った。
「第一の選択を選べば、何が起こるか。中間界は閉じる。扉は消える。庭は普通の庭になる。植物は普通の植物になる。お前は普通の人間になる」
「それなら——」
「しかし」庭師は言葉を重ねた。
「全ての植物が死ぬ。即座に。なぜなら、彼らは今、両方の世界に根を張っているから。片方の世界が閉じれば、根が引きちぎられる」
私は庭を見た。何百という植物。全てが、死ぬ。
「そして」庭師は続けた。
「この庭に助けられた人々は? 定期的に感情の交換が必要な者たちは? 彼らは、再び苦しみ始める。痛みが戻ってくる。お前の祖母が癒した傷が、再び開く」
私の胸が痛んだ。
「第二の選択」別の庭師が前に出た。
「完全な管理者になる。これは、お前の祖母が歩んだ道だ」
「祖母のように?」
「そう。感情を、完全に植物に移す。自分の喜びも、悲しみも、怒りも、恐れも。全て。そうすれば、お前は完璧な通路になる。詰まることがない。他人の感情が、お前を通って、スムーズに流れる」
「でも、そうしたら——」
「お前は、空になる」庭師は淡々と言った。
「感情のない存在。機能する器。それは生きているのか? 哲学的な問いだ。しかし、機能はする」
私は祖母の最後の日々を思い出した。穏やかすぎる顔。まるで、すでにこの世界にいないような。
「祖母は、苦しんだの?」
「苦しみという概念がなくなった。苦しみも、幸福も。全てが、等価になった。それは、ある種の平和だ。しかし——」
庭師は言葉を切った。
「それは、お前が望む平和か?」
私は答えられなかった。
◇ ◇ ◇
その時、ドアがノックされた。
ノックというには荒々しい。叩きつけられる音。複数の拳で。
私はドアを開けた。
そこに、十人以上の人々が立っていた。
最初に来た女性、中年の男性、不眠症の大学生——私が助けた人々だ。しかし、彼らの様子がおかしい。
顔が青白い。目が虚ろだ。そして、全員が同じ方向を見ている。庭を。
「助けて」女性が言った。
「また、戻ってきた」
「何が?」
「痛みが」男性が言った。
「突然、戻ってきた。さっきまで平気だったのに——」
大学生が膝をついた。「頭が、割れそう——」
私は理解した。
境界の崩壊は、一方通行ではない。中間界が地上に漏れ出すと同時に、地上の現実が中間界に侵食する。そして、植物に移された痛みが、不安定になる。
植物の中で静かに変換されていた感情が、再び暴れ始めている。
「中に入って」私は言った。
しかし、彼らが一歩踏み入れた瞬間、家全体が揺れた。
地震ではない。これは、空間の揺れだ。
リビングの壁が、透けた。壁の向こうに、中間界が見える。巨大な地下空間、光る植物、青い月。
そして、中間界から、何かが溢れ出してきた。
感情だ。
具体的な形を持った感情。赤い霧は怒り、青い霧は悲しみ、黒い霧は絶望。それらが、リビングに流れ込んでくる。
人々が悲鳴を上げた。
霧に触れた者から、変化が起こる。赤い霧に触れた女性が、突然叫び始めた。
「なぜ! なぜ私だけ!」——それは彼女の言葉ではない。誰か別の人の怒りだ。
青い霧に触れた男性が、泣き崩れた。子供のように。彼の中に、他人の悲しみが流れ込んだのだ。
「出て!」私は叫んだ。
「みんな、外に!」
しかし、外も同じだった。
庭から、感情の霧が立ち上っている。それは煙のように空に昇り、風に乗って街に向かっている。
隣の家から、悲鳴が聞こえた。
さらに遠く、別の悲鳴。
街全体が、感情の洪水に飲まれ始めている。
庭師が、私の肩を掴んだ。
「選べ。今すぐ。第一か、第二か」
私は混乱していた。どちらも、間違っている気がする。しかし、時間がない。人々が苦しんでいる。街が、崩壊しかけている。
「待って」私は言った。
「第三の選択は? あなたたちは、第三の選択があると——」
庭師たちは、互いに顔を見合わせた。
「第三の選択は——」最初の庭師が口を開きかけた時。
声が響いた。
低く、深く、大地そのものが喋っているような声。
『私が説明しよう』
全員が、声の方向を見た。
庭の中心。ローズマリーの木。
木が、喋っていた。
◇ ◇ ◇
ローズマリーの木は、七十年この庭に立っている。
祖母が若い頃、涙を流した場所に生えた木。誰が植えたのか、わからない木。しかし、この庭の全てを見てきた木。
その木が、初めて、人間の言葉を発した。
『娘よ』
木は私を呼んだ。娘、と。
『お前は、選択を誤解している』
木の幹が、口のように開いた。いや、開いたのではない。幹の節目が、唇に見えるだけだ。しかし、確かに言葉を発している。
『第一と第二の選択は、どちらも降伏だ。一つは世界への降伏、もう一つは役割への降伏』
木の枝が揺れる。風はないのに。
『しかし、第三の選択は、創造だ』
「創造?」
『そう。新しい在り方を、創造する。お前の祖母は、古い契約に従った。しかし契約は、書き換えられる』
木の根元が光り始めた。地面が裂け、扉が現れた。あの、小さな扉。
『境界を、消すのではなく、書き換えろ。二つの世界を分けるのではなく、統合しろ』
「統合? そんなことが——」
『可能だ。しかし、代償がある』
木の声が、静かになった。
『お前自身が、境界にならなければならない。人間でもなく、植物でもなく、その間に。永遠に』
私は息を呑んだ。
「それは、つまり——」
『変容だ。お前の体は、半分人間、半分植物になる。お前は季節を感じ、土の声を聞き、光合成をする。しかし、人間の心も保つ。感情も、記憶も、意志も』
木の枝が、私に向かって伸びてきた。
『これは、お前の祖母にはできなかった選択だ。なぜなら、彼女の時代には、この選択肢が存在しなかったからだ。しかし今、境界が崩壊したことで、可能になった』
「なぜ、今なの?」
『なぜなら、お前の血が土に混ざったから。偶然ではない。必然だ。お前の体は、すでに準備を始めている。傷が塞がらないのも、そのためだ』
私は足首を見た。包帯の下から、まだ血が流れている。
しかし、今、気づいた。
血の色が、変わっている。赤ではなく、緑がかっている。葉緑素が、混ざっているのか。
『お前は、選べる。変容を受け入れるか、拒否するか。しかし、拒否すれば、第一か第二の選択に戻る』
木は、待った。
周囲の感情の霧は、まだ渦巻いている。人々は、まだ苦しんでいる。街は、まだ混乱している。
時間がない。
しかし、この選択は、永遠に私を変える。
人間であることを、半分諦める。植物になることを、半分受け入れる。
私は、それでも私でいられるのか。
ローズマリーの木を見上げる。
木は、七十年間、ここに立っていた。動かず、喋らず、ただ見ていた。祖母の涙を、笑顔を、苦しみを、全て見ていた。
そして今、木は私に語りかけている。
『恐れることはない』木は言った。
『変容とは、喪失ではない。変容とは、拡張だ。お前は人間としての自分を失わない。ただ、それに植物としての自分を加える』
『お前は、二つの世界の橋になる。境界そのものに。そうすれば、境界は崩壊しない。なぜなら、お前が境界を支えるのだから』
私は目を閉じた。
深呼吸。
そして、決めた。
「やる」
私は目を開け、木を見た。
「私は、変容を受け入れる」
木の枝が、優しく揺れた。
『いいだろう。では、来るがいい。根の部屋へ』
地面の扉が、完全に開いた。
その向こうに、階段。しかし今回は、光っている。招待の光。
私は一歩、踏み出した。
背後で、庭師たちが囁いた。
「勇気ある選択だ」
「しかし、戻れない」
「戻る必要はない。彼女は、前に進むのだから」
私は階段を降り始めた。
最後に見たのは、人々の顔だった。苦しみに歪んだ顔。
私は彼らを救う。新しい形で。
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