第10話「カモミールを一杯」

 地上に戻ると、世界は二重奏だった。


 人間の目で見る世界と、植物の根で感じる世界。二つが重なり合って、和音を奏でている。不協和音ではない。これは、複雑だが調和した音楽だ。


 庭に立つと、全てが違って見えた。


 いや、見えるという言葉は不正確だ。感じる。存在する。私は庭を見ているのではなく、庭の一部として在る。


 足の裏から、根のネットワークを通じて、情報が流れてくる。


 土の湿度。地下水の流れ。ミミズの這う振動。種の発芽。根の成長。


 そして、感情の残滓。


 土に染み込んだ、無数の感情。喜び、悲しみ、怒り、恐れ。それらが、まだ地中に漂っている。


 私は手を広げた。


 すると、庭全体が反応した。


 全ての植物が、一斉に私の方を向いた。物理的に動いたのではない。意識が、私に向いた。彼らは、新しい管理者を認識した。


 そして、待っている。指示を。導きを。


「みんな」私は声に出して言った。


「ありがとう。これまで、よく耐えてくれた」


 風が吹いた。返事のように。


「でも、もう大丈夫。境界は、私が支える」


 私は地面に膝をついた。両手を土につけた。


 そして、自分の意識を、根を通じて、庭全体に広げた。


 カモミール、ラベンダー、ローズマリー、レモンバーム、セージ、ペパーミント——全ての植物に。


 そして、語りかけた。言葉ではなく、存在で。


【聞いて。これから、新しい循環が始まる】


【痛みを受け取るだけじゃない。痛みを変換して、それを成長の糧にして、そして、その成長を人間に返す】


【私たちは、一つの生命体になる。私が、つなぎ目になる】


 植物たちが、応えた。


 葉が揺れ、枝がしなり、根が震えた。


 そして、黒い花たちが、ゆっくりと開き始めた。


 花弁が広がる。中心から、光が漏れる。それは、変換された痛みの光だ。もはや苦しみではない。それは、新しいエネルギーだ。


 光は空に昇り、星のように輝き、そして——降り注いだ。


 庭全体に。家に。門の外に。


 街に。


 ◇ ◇ ◇


 街では、人々がまだ苦しんでいた。


 感情の霧に飲まれて、泣き叫び、怯え、怒っていた。


 しかし、黒い花の光が降り注ぐと、変化が起こった。


 霧が、薄くなっていく。


 消えるのではない。形を変える。霧から、雨に。そして雨は、優しく人々に降り注ぐ。


 触れた人々の表情が、変わる。


 苦痛が、和らぐ。しかし、消えたわけではない。ただ、距離ができる。


 痛みはそこにある。しかし、痛みが全てではない。


 人々は、ゆっくりと立ち上がり始めた。


 私は、家の前に集まっていた依頼人たちを見た。


 最初に来た女性、中年の男性、大学生。彼らも、光に触れて、落ち着きを取り戻している。


 女性が、私を見た。


 そして、驚いた表情を浮かべた。


「あなた——」


 私は微笑んだ。


「大丈夫。私は、私です」


 しかし、彼女の表情を見て、わかった。


 私の見た目が、変わったのだ。人間と植物の中間に。


 髪は蔓のように揺れ、肌は緑がかり、目には葉緑素の光が宿っている。


「何が、起こったの?」男性が訊いた。


「境界を、書き換えました」私は答えた。


「もう、崩壊することはありません」


 私は彼らに近づいた。一人一人の手を取る。


 触れると、わかる。彼らの体の中に残っている痛みの場所。その形。その重さ。


「これから、新しい形で、お手伝いします」


「新しい形?」


「はい。痛みを奪うのではなく、痛みとの付き合い方を、お教えします」


 私は庭を指した。


「この庭は、開かれました。誰でも来られます。ここで、植物と対話してください。彼らは、あなたの痛みを聞きます。そして、どう生きるべきか、教えてくれます」


「植物が、喋るの?」大学生が訊いた。


「喋りません。でも、語りかけます。風で、香りで、色で」


 私は微笑んだ。


「そして、私がいます。通訳として。橋として」


 ◇ ◇ ◇


 人々は、一人ずつ去っていった。


 しかし、去る前に、みんな庭に入り、植物に触れていった。


 最初は恐る恐る。しかし、触れると、驚きの表情。


「温かい」


「生きてる」


「何か、伝わってくる」


 彼らが去った後、私は一人、庭に残った。


 いや、一人ではない。植物たちと、一緒に。


 そして——


「よくやったね」


 声が聞こえた。


 私は振り返った。


 そこに、祖母が立っていた。


 ◇ ◇ ◇


 祖母は、七十代の頃の姿だった。


 白い髪、優しい目、少し曲がった背中。私が覚えている、祖母そのもの。


 しかし、透けている。


 霧のように。庭師たちのように。


「おばあちゃん——」


 私は駆け寄ろうとした。しかし、足が動かなかった。なぜなら、足は根を張っているから。


 祖母は微笑んだ。


「根を抜かなくていい。そこにいて」


 祖母は私に近づいてきた。いや、近づいたのではない。突然、目の前にいた。距離という概念が、彼女には適用されない。


「あなたは——幽霊?」


「幽霊じゃない」祖母は首を振った。


「私は、庭の記憶」


「記憶?」


「そう。私が七十年間、この土に流した涙、笑顔、ため息。全てが、土に記録されている。その記録が、今、あなたの前に現れている」


 祖母は、ローズマリーの木を見た。


「あの木を通じて。あの木は、私の全てを見てきた。そして、覚えている」


 私は理解した。


 祖母は死んだ。しかし、祖母の意識の一部が、庭に残っている。植物の集合意識の中に。


「あなたは、正しい選択をした」祖母は言った。


「私ができなかった選択を」


「おばあちゃんは——後悔している?」


「後悔?」祖母は首を傾げた。


「後悔とは、別の選択ができたと信じることだ。でも、私の時代には、別の選択はなかった。だから、後悔はない」


 祖母は私の顔を見た。


「でも、あなたの時代には、別の選択があった。そして、あなたは選んだ。それが、進化というものよ」


「進化——」


「そう。人間も、植物も、そして契約も。全ては、進化する。あなたは、次の段階に進んだ」


 祖母は手を伸ばした。私の頬に触れようとする。


 しかし、触れられなかった。彼女の手は、私の肌をすり抜ける。


「ごめんね。もう、触れられない」


「いいの」私は言った。


「感じるから。あなたの温もりを。土を通じて」


 祖母は微笑んだ。


「賢い子。私が教えたことを、超えた」


 祖母は、庭を見回した。


「この庭は、もう私のものじゃない。あなたのものになった。いや、あなた自身になった」


「私自身?」


「そう。あなたは庭を管理するのではなく、庭と一つになった。境界を消した」


 祖母は空を見上げた。


「それが、本来あるべき姿だったのかもしれない。人間と植物の分離は、人間が作った幻想だから」


 祖母の姿が、薄くなり始めた。


「待って」私は言った。


「まだ、訊きたいことがある」


「訊きなさい。でも、急いで。記憶は、長く形を保てない」


「私の祖父——おばあちゃんが愛した人。彼の名前は?」


 祖母は、一瞬、驚いた表情を浮かべた。


 そして、笑った。


「覚えていないの。信じられる? 名前を、忘れてしまった」


「でも——」


「名前は、重要じゃない。私が覚えているのは、彼の笑顔。声。手の温もり。一緒に見た桜。それだけで、十分」


 祖母の姿が、さらに薄くなる。


「そして、覚えておきなさい。彼は、あなたの中にもいる。血を通じて。あなたは、彼の孫だから」


 私は胸が熱くなった。


 そうだ。私は、祖母が愛した人の孫だ。その人は祖母を忘れたけれど、その血は、私に流れている。


「ありがとう、おばあちゃん」


「こちらこそ」祖母は言った。「よい継承者を得た。これで、安心して消える——いや、溶けられる」


 祖母は、最後に言った。


「これは、始まりに過ぎないわ。あなたの物語は、これから。楽しみにしている。土の下から」


 祖母は、光になって消えた。


 風に乗って、庭全体に散っていった。


 そして、全ての植物が、一瞬、明るく光った。


 祖母を、受け入れた証。


 ◇ ◇ ◇


 季節が変わった。


 秋から冬へ。冬から春へ。


 私は、季節を肌で感じた。いや、体全体で。


 冬の寒さは、休眠の時間だった。エネルギーを蓄え、土の深くで静かに待つ。


 春の温もりは、覚醒の時間だった。新しい芽が出る。新しい命が始まる。


 そして、春のある日。


 私は新しい植物を植えた。


 それは、私の髪の毛から育てた植物だった。


 変容の日、床に落ちた髪。それを土に埋めたら、芽が出た。


 人間の髪から、植物が生まれた。


 これは、新しい種だ。この世界に、まだ存在しなかった植物。


 花は、白とピンクの中間色。葉は、緑と茶色の中間色。


 そして、この植物は、特別な性質を持っていた。


 触れた人の感情を、色で表現する。


 嬉しい人が触れると、花が明るく光る。


 悲しい人が触れると、葉が青く染まる。


 怒っている人が触れると、茎が赤くなる。


 感情の可視化。


 人々は、この植物を通じて、自分の感情を客観的に見られるようになった。


 そして、植物が教えてくれる。


「あなたは、今、こう感じている。それは、悪いことじゃない。ただ、それを認識して」


 ◇ ◇ ◇


 ある春の午後、若い女性が訪ねてきた。


 二十代前半。大きなリュックを背負い、疲れた顔をしている。


「すみません」女性は言った。


「この辺りに、不思議な庭があるって聞いて——」


「ここです」私は微笑んだ。


「どうぞ、入って」


 女性は、恐る恐る門をくぐった。


 庭を見回して、目を丸くした。


「きれい——」


 庭は、今、満開だった。


 カモミールの白、ラベンダーの紫、ローズの赤、新しい植物のピンクと白。


 そして、全てが、微かに光っている。


「お茶、いかがですか」私は訊いた。


「はい」女性は頷いた。


 私は彼女をテーブルに案内し、カモミールの茶を淹れた。


 祖母と同じやり方で。しかし、一つだけ違う。


 私は、茶葉に話しかける。声に出して。


「ありがとう。あなたの力を、分けてください」


 そして、淹れる。


 女性にカップを渡す。


 彼女は一口飲んで、目を閉じた。


「おいしい——そして、何か——」


「何か?」


「温かい。体じゃなくて、心が」


 女性は目を開けた。


「これは、何ですか?」


 私は微笑んだ。


「カモミール。忘れるための飲み物よ」


 女性は首を傾げた。


「でも、何も忘れたくない気分になります。逆に、思い出したくなる。大切なことを」


 私は頷いた。


「その通り。本当は、思い出すための飲み物なの」


「思い出す?」


「ええ。自分が何者か。何を大切にしているか。どう生きたいか。忙しい日常で忘れてしまうことを、思い出す」


 女性は、もう一口飲んだ。


 そして、涙を流した。


「私——すごく疲れていて。もう、何もかも、どうでもいい気がして」


「うん」


「でも、今、思い出した。私、本当は、絵を描きたかった。子供の頃から、ずっと」


 女性は笑った。涙を流しながら。


「忘れてた。いつから、忘れてたんだろう」


 私は彼女の手を取った。


 触れると、わかる。彼女の心の中にある、小さな光。夢の光。


「その光を、消さないで」私は言った。「どんなに小さくても。その光が、あなたを導く」


 女性は頷いた。


 彼女は、カップを空にして、立ち上がった。


「ありがとうございました。また、来てもいいですか」


「いつでも」私は言った。「庭は、いつも開いています」


 女性は去った。しかし、去る時の背中が、来た時より軽やかだった。


 ◇ ◇ ◇


 夕暮れ。


 私は庭に座り、空を見上げた。


 雲が、オレンジ色に染まっている。


 風が吹く。植物たちが、揺れる。


 そして、私も揺れる。彼らと一緒に。


 私は、もう人間ではない。


 しかし、人間性を失ったわけでもない。


 私は、境界だ。


 二つの世界を繋ぐ、生きた橋。


 これから、何百年も、私はここにいる。


 人々を迎え、植物と対話させ、痛みを変換し、希望を育てる。


 孤独だろうか?


 いや。


 私は、無数の命と繋がっている。


 土の中の微生物、根のネットワーク、空を飛ぶ鳥、訪れる人々。


 全てが、私の家族だ。


 カモミールが、風に揺れる。


 私は手を伸ばし、花に触れる。


「ありがとう」私は呟く。


 花が、答える。言葉ではなく、香りで。


 それは、祝福の香りだった。


 空に、最初の星が瞬く。


 新しい夜が来る。


 そして、新しい朝が来る。


 私は、その全てを見守る。


 境界として。


 庭師として。


 そして、人間と植物の間に生まれた、新しい種として。


 風が、私の名前を呼ぶ。


 いや、名前ではない。


 風は、私の存在を呼んでいる。


 私は、答える。


 存在で。


「ここにいる」と。


「ずっと、ここにいる」と。


 庭は、静かに呼吸している。


 私も、一緒に。


【完】

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