第7話「街の記憶」

 私は正式に庭師と契約を交わした。一週間で、依頼人は十三人になった。


 十三という数字は不吉だと言われる。しかし不吉とは、単に期待と現実のズレに過ぎない。人は十二で区切りをつけたがる。一年は十二ヶ月、時計は十二時間。だから十三は、枠からはみ出した数字だ。収まりきらない何か。


 彼らは口コミで来た。最初の女性が、誰かに話したのだろう。「不思議な場所がある」と。「あそこに行けば、楽になれる」と。


 しかし、それは正確ではない。楽になるのではない。痛みが形を変えるだけだ。液体が気体になるように。目に見えなくなるが、消えたわけではない。


 私は毎日、朝から晩まで、交換を行った。


 不眠症の大学生。彼の目の裏に溜まった焦燥を、セージに移した。セージは一晩で枯れ、翌朝、灰色の粉になっていた。


 流産した若い母親。彼女の子宮に残る空虚を、ペパーミントに移した。ペパーミントは、青白く光る葉をつけた。触れると、冷たかった。氷よりも冷たい。それは温度ではなく、不在の冷たさだった。


 虐待の記憶を持つ中年男性。彼の背中に刻まれた恐怖を——これは難しかった。恐怖は根が深い。表層だけでなく、骨にまで達している。私は三時間かけて、少しずつ、レモンバームに移した。レモンバームは震えながら成長し、葉の縁が黒く縁取られた。


 それぞれの交換の後、私は疲れた。


 しかし、疲労の質が変わってきていることに気づいた。最初の頃は、肉体的な疲労だった。筋肉痛、頭痛、眠気。しかし今は、別の種類の疲労だ。


 魂の疲労、とでも呼ぶべきか。


 それは、自分の輪郭が曖昧になっていく感覚だ。私がどこで終わり、他者がどこから始まるのか。境界が溶けている。まるで、水彩絵の具が水に滲むように。


 ◇ ◇ ◇


 ある日の夕方、私は鏡を見て、驚いた。


 顔が、変わっていた。


 いや、変わったのではない。薄くなった。具体的には、表情が。笑っても、顔の筋肉が動くだけで、笑いが目に届かない。悲しんでも、涙は出るが、胸が痛まない。


 私は自分の頬を叩いた。痛い。痛覚は残っている。しかし、痛みに対する感情がない。痛みがあそこにあって、私がここにいる。分離。


 これは、郵便配達員がラベンダーの精油で作った分離と同じだ。しかし、あれは一時的だった。今、起こっているのは、永続的な分離だ。


 私は台所に行き、カモミールを淹れた。


 しかし、カップを持つ手が震えない。普通なら、疲労で手が震るはずだ。震えないということは、体が感覚を放棄し始めているのか。


 カモミールの味は、いつもと同じだった。同じに感じる。しかし本当に同じなのか、それとも、私の味覚が鈍麻しているだけなのか。判別できない。


 窓の外を見ると、庭師の一人が立っていた。


 霧の体。今日は、少し緑がかっている。私は裏口を開けた。


「久しぶり」私は言った。


「久しぶりではない。毎日、見ている」庭師は答えた。


「お前が気づかないだけだ」


「なぜ、今日は姿を見せたの?」


「警告するために」


 庭師は庭を見回した。黒い花が、あちこちに咲いている。数えていないが、おそらく三十は超えている。


「多すぎる」庭師は言った。


「交換のペースが速すぎる。お前の体が、追いついていない」


「でも、みんな苦しんでいる。助けないわけには——」


「助ける?」庭師は私を見た。


「お前は助けているのではない。変換しているだけだ。そして、変換の度に、お前自身が消耗する」


「知っている」


「いや、知らない」庭師は一歩近づいた。


「お前はまだ、理解していない。あまり多くを移し替えると、お前自身が空になる。器が、中身を失う。そうなったら、お前は何だ? 空っぽの器。それは生きているのか?」


 私は答えられなかった。


 庭師は続けた。


「お前の祖母は、それを理解していた。だから彼女は、ペースを守った。月に五人まで。それ以上は、受け付けなかった。お前は、週に十人以上を受け入れている」


「でも、断れない。彼らは苦しんでいて——」


「全ての苦しみを、お前が受け止める必要はない」庭師の声が、厳しくなった。


「世界は苦しみで満ちている。お前が全てを変換しようとすれば、お前が最初に壊れる。そして、お前が壊れたら、誰も救えない」


 庭師は、ローズマリーの木を指した。


「見ろ。あの木でさえ、黒い花の重さで枝が垂れている。植物は文句を言わない。しかし、限界はある」


 私は木を見た。確かに、枝が以前より低い位置にある。まるで、疲れて肩を落としているように。


「どうすれば——」


「休め」庭師は言った。


「一週間、誰も受け入れるな。そして、自分の感情を取り戻せ。喜び、悲しみ、怒り。お前自身の感情を」


「でも、どうやって?」


 庭師は微笑んだ。表情筋がないのに、微笑んでいるとわかる。


「土に触れろ。受け取るのではなく、与えるために。お前の喜びを、土に。お前の感謝を、植物に。交換は、一方通行ではない」


 庭師は消えた。文字通り、霧のように。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、私は庭に出た。


 土に、両手をつけた。そして、心の中で探した。喜びを。感謝を。


 しかし、見つからなかった。


 心の中が、空っぽだった。いや、空っぽではない。他人の感情で満ちている。他人の痛み、他人の悲しみ、他人の恐怖。それらが、私の心を占拠している。


 私自身の感情は、どこだ?


 私は目を閉じ、過去を遡った。


 最後に笑ったのは、いつだったか。本当に、心から笑ったのは。


 思い出せない。


 最後に泣いたのは。祖母のノートを読んだ時。あれは、私自身の涙だったか。それとも、祖母の悲しみに共鳴しただけか。


 わからない。


 私は、自分を失いかけている。


 その時、土が震えた。


 私の手の下で、土が振動している。そして、記憶が流れ込んできた。しかし今回は、他人の記憶ではなかった。


 私自身の記憶。


 七歳の私。カモミールを初めて飲んだ日。祖母の笑顔。膝の痛みが和らぐ感覚。そして、安心感。


 十五歳の私。母と喧嘩した日。部屋で泣いていると、母が入ってきて、何も言わずに隣に座った。二人で、無言で座っていた。それだけで、許された気がした。


 二十歳の私。大学で、初めて植物の細胞を顕微鏡で見た日。葉緑体が動いているのを見て、感動した。生命とは、動きだと理解した。


 記憶が、次々と戻ってくる。私の記憶。私の感情。


 そして、最新の記憶。


 最初の依頼人を助けた時。あの女性が笑顔で去った時、私は嬉しかった。本当に、嬉しかった。


 その喜びは、どこに行ったのか。


 見つけた。


 心の隅に、小さく縮こまっていた。他人の感情の重さに押しつぶされて、息をひそめていた。


 私はその喜びを、丁寧に拾い上げた。そして、土に流した。与えた。


 土が、温かくなった。


 喜びを受け取った土が、応答してきた。土の中から、何かが生まれようとしている。


 私は手を離し、後ずさった。


 土の表面が盛り上がり、何かが地上に押し出されてくる。


 芽だった。


 新しい芽。何の植物かは、まだわからない。しかし、確かに生まれてきている。


 そして、その芽は黒くなかった。緑だった。明るい、希望の緑。


 私は微笑んだ。本当の微笑み。顔の筋肉だけでなく、心も一緒に動く微笑み。


 しかし、その瞬間。


 庭の反対側で、何かが動いた。


 ◇ ◇ ◇


 私は振り返った。


 レモンバームの茂みが、膨らんでいる。いや、膨らんでいるのではない。内側から、何かが押し広げている。


 蔓が伸びてくる。しかし、普通の蔓ではない。黒くて、太くて、表面に棘がある。棘には、赤い液体が滴っている。樹液ではない。これは——血だ。


 蔓は地面を這い、他の植物に絡みつき始めた。絡みつかれた植物が、悲鳴を上げる。音ではなく、振動で。空気が震える。


 私は走った。蔓に向かって。止めなければ。


「やめて!」


 私は叫んだ。しかし、蔓は止まらない。それどころか、私に向かって伸びてくる。


 避ける暇がなかった。


 蔓が、私の足首を掴んだ。


 痛い。棘が、皮膚を突き破る。しかし、物理的な痛みだけではない。蔓を通して、何かが流れ込んでくる。


 憎しみだ。


 三日前、私が移し替えた中年男性の憎しみ。虐待への憎しみ、加害者への憎しみ、そして自分自身への憎しみ。それが、レモンバームの中で発酵し、変質し、今、暴走している。


 私は蔓を引き剥がそうとした。しかし、握れば握るほど、憎しみが流れ込んでくる。私の腕を這い上がり、肩に達し、首に——


 視界が、赤く染まる。


 私は誰かを憎んでいる。誰を? わからない。でも、憎い。燃えるように、憎い。


 私は蔓を引きちぎった。


 素手で。皮膚が裂け、血が流れる。しかし、痛みを感じない。憎しみが、全てを覆い隠している。


 蔓が、悲鳴を上げた。今度は本当に、音で。高く、鋭い音。それは植物の声ではなく、人間の声だった。あの中年男性の声。


 私は地面に倒れた。


 蔓は、まだ動いている。しかし、私から離れた。代わりに、庭の中心に向かっている。ローズマリーの木に向かって。


 木を、破壊するつもりだ。


 私は立ち上がろうとした。しかし、足が動かない。出血が、多い。意識が、遠のいていく。


 その時、庭師たちが現れた。


 五人、十人、いや、数え切れない。彼らは蔓を囲み、手を繋いだ。


 そして、歌い始めた。


 言葉のない歌。音程のない歌。しかし、それは確かに歌だった。鎮魂歌。憎しみを鎮めるための歌。


 蔓の動きが、鈍くなる。棘が、縮む。黒い色が、薄くなる。


 そして、蔓は地面に崩れ落ちた。


 動かなくなった蔓は、急速に分解し始めた。土に還る。灰に還る。


 私は、その光景を見ながら、意識を失った。


 ◇ ◇ ◇


 目が覚めたのは、翌朝だった。


 私はベッドで横になっていた。足首に、包帯が巻かれている。誰が運んだのか。庭師たちだろうか。


 体を起こすと、激痛が走った。足首だけでなく、全身が痛い。まるで、体の中を何かが暴れ回ったように。


 窓から、庭を見た。


 レモンバームの茂みがあった場所に、焦げ跡が残っている。直径三メートルほどの、完全な円。その中心に、小さな墓標のようなものが立っている。


 いや、墓標ではない。新しい芽だ。


 黒い芽。


 憎しみは、完全には消えなかったのか。それとも、これは新しい形の、何かなのか。


 ベッドサイドのテーブルに、メモが置いてあった。


 庭師の字で。


『休め。これは、警告だ。次は、お前が暴走する』


 私はメモを握りしめた。


 痛みが、体を駆け巡る。しかし、この痛みは悪くない。これは、生きている証拠だ。


 窓の外では、鳥が鳴いている。


 新しい朝が、来た。


 しかし、私は変わってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る