第6話「祖母の告白」

 三日が経った。


 郵便配達員の言った通り、体は慣れてきた。頭痛は残っているが、もう親友のように感じる。痛みとは、結局のところ、体が何かを教えようとする言語だ。その言語を理解すれば、痛みは敵ではなくなる。


 ただし、黒い花は増え続けている。


 ローズマリーの木に、三輪。カモミールの跡地に、一輪。レモンバームの茂みに、二輪。庭は、徐々に喪服を纏い始めている。そして不思議なことに、それは美しかった。悲しみの美しさ、というものがある。それは、明るい美しさよりも深く、重く、忘れがたい。


 依頼人は、さらに三人来た。


 不眠の老婆。その目の下の隈を、ラベンダーに移した。ラベンダーは一晩で、倍の高さに育った。


 失恋の若い男。その胸の空洞を、ローズヒップに移した。ローズヒップは赤い実をつけた。通常より大きく、中に涙が詰まっているように見える実を。


 そして、記憶を失いたいという中年女性。彼女の場合は、逆だった。記憶を植物に移すのではなく、植物の「忘却」を彼女に移した。カモミールの持つ、過去を柔らかくする性質を。


 全ての交換の後、私は疲弊した。しかし、それは嫌な疲労ではなかった。それは、何か意味のあることをした後の、充実した疲労だ。


 今、私は祖母のノートを読んでいる。


 物置から持ち帰った三冊のうち、二冊目。一冊目は「庭師の規則」と初期の記録だった。二冊目は、もっと私的な内容だ。日記、というより、告白に近い。


 最初のページに、日付がある。一九五二年、三月。祖母が二十三歳の時だ。


【一九五二年三月十五日】


 春が来た。しかし、彼は来ない。


 病室の窓から、桜が見える。満開だ。去年、私たちは一緒に花見に行った。彼は言った。「来年も、一緒に見よう」と。


 しかし、来年は来ない。医者は言う。「もって一ヶ月」と。


 私は庭で、毎日泣いている。涙で土が濡れる。濡れた土から、何か生えてくるかと思った。しかし、何も生えない。悲しみは、肥料にならない。悲しみは、ただの水だ。


【三月二十日】


 今日、不思議なことがあった。


 泣いていると、土が光った。最初、目の錯覚だと思った。しかし、確かに光っていた。青い光。月の光ではない。土の内側からの光。


 光は、私の涙が落ちた場所から広がった。そして、声が聞こえた。


「なぜ泣く」


 私は周りを見た。誰もいない。


「下だ」


 土が喋っている。いや、土の下の何かが。


「あなたは、誰?」


「名前はない。しかし、取引はできる」


「取引?」


「お前の涙と、お前の願いを交換しよう」


 私は笑った。笑うつもりはなかったが、笑ってしまった。狂気の笑い。


「私の願いは、彼を救うこと。それができるの?」


「できる」


「嘘だ」


「嘘ではない。ただし、代償がある」


「何でも払う」


 土が、沈黙した。長い沈黙。そして、言った。


「お前の存在を」


 ---


 私は読むのを止めた。


 胸が痛い。物理的な痛みではなく、共感の痛み。祖母の痛みが、時間を超えて、私の胸に刺さる。


 窓の外を見る。今は秋だ。桜はない。しかし、想像できる。七十年前の春、若い祖母が桜の下で泣いている姿が。


 私はカモミールの茶を一口飲み、続きを読んだ。


 ---


【三月二十五日】


 契約した。


 詳細は、書けない。書くと、契約が破れる。しかし、結果だけは書ける。


 彼は助かった。奇跡的に。癌が消えた。医者は首を傾げている。


 しかし、彼は私を覚えていない。


 今日、病室に行った。彼はベッドで本を読んでいた。顔色がいい。血色がある。生きている。


「こんにちは」私は言った。


 彼は顔を上げて、微笑んだ。「こんにちは。看護師さん?」


「違う」私は言った。「友達」


「友達?」彼は首を傾げた。「ごめん、記憶がちょっと曖昧で。病気のせいかな」


「そう、病気のせい」私は嘘をついた。


 私たちは三十分、話した。彼は優しかった。昔と同じくらい。しかし、距離があった。初対面の人との距離。


 帰り道、私は泣かなかった。泣く権利を、もう失った気がした。


【三月二十八日】


 気づいた。月のものが来ない。


 もしかして——


 医者に診てもらった。妊娠している。二ヶ月。


 彼の子だ。私たちの子。


 しかし、彼は私を覚えていない。この子のことも、知らない。知ることもない。


 契約の条件を、今になって理解した。「お前の存在」とは、私が、彼の記憶から消えるだけではなかった。


 私に関する全て。私との思い出、私との未来、私との子供。全て。


【四月一日】


 カモミールが生えた。


 泣いていた場所に。誰が植えたのか、わからない。しかし、育っている。異常な速度で。


 今日、初めて花が咲いた。白い、小さな花。中心が黄色い。


 花を摘んで、お湯に入れた。飲んだ。


 味は、忘却の味だった。いや、忘却ではない。「忘れられることへの慰め」の味。


 これを飲むと、彼が私を忘れたことが、少し、許せる気がする。許すのではない。許せる気がする。これは重要な違いだ。


【四月十五日】


 土の声が、また聞こえた。


「お前は良くやった」


「良くやった、って」私は苦笑した。


「私は何も得ていない」


「得た。彼の命を」


「でも、彼は私を——」


「忘れた。それが代償だ」


「不公平だ」


「公平な取引は、存在しない。全ての取引は、誰かが多く払う」


 土は続けた。


「しかし、お前には選択肢がある。この力を、他者のために使うか。それとも、ここで終わりにするか」


「他者?」


「お前と同じように、苦しんでいる者たちがいる。愛する者を失った者、失いかけている者。お前は、彼らと植物の間に立つことができる」


「なぜ、私が?」


「なぜなら、お前はすでに代償を払ったから。最大の代償を。存在を消されても、なお生きている。それは、強さだ」


 私は考えた。長く。


 そして、答えた。


「やる」


 ---


 私は息を呑んだ。


 これが始まりだったのか。祖母の管理者としての人生は、失恋から生まれた。いや、失恋ではない。もっと深刻な喪失。存在の抹消。


 私は立ち上がり、窓辺に行った。


 庭を見下ろす。黒い花が、月光を吸って光っている。あの花々の一つ一つが、誰かの痛みだ。そして、祖母の最初の痛みも、どこかでこうして花になったのだろうか。


 ページをめくる。次の記述は、五年後だった。


 ---


【一九五七年六月三日】


 今日、彼が結婚した。


 招待状は来なかった。当然だ。彼は、私を知らない。


 しかし、教会の外から見た。白いドレスの花嫁。彼の笑顔。幸せそうだった。


 私は祝福した。本当に。嫉妬はなかった。嫉妬する権利もない。なぜなら、私は彼の人生に、存在しないから。


 帰宅して、カモミールを三杯飲んだ。


 一杯目は、彼の幸せのために。

 二杯目は、花嫁の幸せのために。

 三杯目は、消えた私自身のために。


 三杯目の味が、一番苦かった。


【一九六八年十月十日】


 管理者になって、十六年が経った。


 何百人を癒した。いや、癒したのではない。彼らの痛みを、変換した。痛みを、植物に。植物の力を、人間に。


 庭は巨大になった。裏庭だけでは足りず、隣の土地を買った。そこにも、薬草を植えた。


 しかし、最近気づいた。


 私の感情が、薄くなっている。喜びも、悲しみも、怒りも。全てが、ガラス越しに感じる感覚。


 これは、代償なのだろうか。他人の感情を扱いすぎて、自分の感情が磨耗したのか。


 それとも、これが望んだことなのか。感情がなければ、痛みもない。痛みがなければ——


 でも、喜びもない。


【一九八五年三月二十日】


 彼が死んだ。


 新聞で知った。訃報欄に、小さく。享年五十六歳。


 葬儀には行かなかった。行く理由がない。私は、彼の人生に存在しなかったのだから。


 しかし、その夜、庭で彼を感じた。


 風が、彼の声で語りかけた気がした。「ありがとう」と。


 何に対する感謝だろう。彼は、私が彼を救ったことを知らない。知らないのに、感謝している。


 魂は、記憶より深い場所で、覚えているのだろうか。


【一九九〇年五月五日】


 孫娘が生まれた。


 娘の娘。私の血を引く子。


 病院で、初めて抱いた。軽かった。しかし、重かった。この子の中に、未来がある。私が見ない未来。


 この子に、何を遺せるだろう。


 庭を遺そう。そして、選択を。


 私と同じ道を歩くか、それとも別の道を。それは、この子が決めることだ。


 ---


 私は、日記を閉じた。


 一九九〇年。私が生まれた年。祖母は、その時からすでに、私にこの役目を継がせることを考えていたのか。


 しかし、次の瞬間、疑問が浮かんだ。


 祖母は、本当に私に選択を与えたのだろうか。それとも、血が、運命が、すでに決めていたのか。


 私は三冊目のノートを手に取った。


 これが最後だ。表紙が、他の二冊より新しい。最近まで書かれていたはずだ。


 最初のページを開く。


【二〇二四年一月一日】


 新年。しかし、私に新しい年はない。


 医者は言う。「あと半年」と。


 半年で、何ができるだろう。


 庭を整える。日記を整理する。そして、彼女を呼ぶ。


 孫娘。私の後継者になるかもしれない子。


 彼女は植物学を学んでいる。偶然だろうか。いや、きっと偶然はない。血が、彼女を導いたのだ。


 彼女に、全てを話すべきか。それとも、自分で発見させるべきか。


 私は後者を選ぶ。


 なぜなら、押し付けられた運命と、選び取った運命は、重さが違うから。


【三月十五日】


 今日は、あの日から七十二年だ。


 彼を救った日。そして、彼から消えた日。


 後悔しているか?


 問われれば、答えは複雑だ。


 彼を失った悲しみは、今も残っている。しかし、彼が生きた五十六年間も、確かにあった。


 私がいなくても、彼は生き、愛し、笑った。それは、価値がなかったか?


 いや、あった。


 存在とは、記憶されることではない。存在とは、影響を与えることだ。


 私は彼の記憶から消えた。しかし、彼の命には、確かに影響を与えた。


 それで、いい。


 ---


 最後のページに、日付がない。


 しかし、筆跡が震えている。祖母の最後の言葉だ。


 ---


 孫へ。


 もしこれを読んでいるなら、あなたはすでに、庭の秘密を知っているだろう。


 あなたは選ぶだろう。私と同じ道を歩くか、それとも違う道を。


 どちらを選んでも、私は誇りに思う。


 ただ、一つだけ覚えておいて。


 カモミールは、忘れるための飲み物ではない。


 それは、忘れられても生きていくための、勇気の飲み物だ。


 痛みは、消さなくていい。


 痛みと共に、歩けばいい。


 それが、生きるということだから。


 愛を込めて。


 あなたの祖母より。


 ---


 私は、ノートを胸に抱きしめた。


 涙が出た。久しぶりの涙。ここに来てから、私は一度も泣いていなかった。しかし今、涙が止まらない。


 祖母の人生を思う。七十年間、失った愛を抱えて生きた人生。しかし、その痛みを、他者を癒すために使った人生。


 私は同じ選択ができるだろうか。


 いや、同じ選択をする必要はない。祖母はそう言っている。「違う道を」と。


 では、私の道とは何か。


 窓の外を見る。庭が、月光の下で静かに呼吸している。植物たち、黒い花たち、そして土。全てが、私の答えを待っている。


 私はカモミールを淹れた。


 今夜は、祖母のために。そして、私自身のために。

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