第5話「黒い石とローズマリー」

 カモミールは、黒く死んでいた。


 死という言葉は正確ではない。変質、と言うべきか。茎は立っているが、葉は縮れ、色は緑から炭のような黒に変わっている。花は咲いていない。花の代わりに、蕾のような黒い塊がついている。まるで、植物が拳を握りしめているようだ。


 私は膝をついて、その株に触れた。


 冷たくはない。むしろ、温かい。いや、熱い。内部で何かが燃えているような熱。しかし煙は出ていない。燃焼ではなく、別の種類の化学反応。感情の代謝。


「ごめんなさい」


 私は呟いた。誰に謝っているのか。カモミールに、か。それとも、あの女性に。いや、私自身に、かもしれない。


 茎を引っ張ってみる。根が深い。簡単には抜けない。植物は死んでも、土にしがみついている。最後まで、自分の場所を守ろうとする。人間より、よほど忠実だ。


 私は諦めて、立ち上がった。


 体が重い。昨夜から、この重さが取れない。体の中に砂が詰まっているような、そんな重さ。動くたび、砂が移動して、バランスを崩す。


 台所に戻り、水を飲む。水は喉を通るが、渇きは癒えない。これは喉の渇きではなく、体全体の渇きだ。細胞一つ一つが、何かを求めて叫んでいる。


 窓の外を見ると、郵便配達員が門の前に立っていた。


 今日は配達日ではない。では、なぜ。


 私は玄関を開けた。


「また来たんですか」


「様子を見に」男は言った。


 あの、瞳孔に意志のある目で私を見る。


「初めての交換は、体に来る。慣れるまで、三日はかかる」


「慣れる?」


「そう。体は学習する。痛みの通り道を。最初は全身を通るが、やがて、特定の経路だけを使うようになる。川が、最も抵抗の少ない場所を流れるように」


 男は私の顔を観察した。


「頭痛は?」


「少し」


「嘘だ」男は笑った。


「目を見ればわかる。相当、痛いはずだ」


 男は鞄から、小さな瓶を取り出した。中に、紫色の液体。


「ラベンダーの精油。こめかみに塗れ。痛みは消えないが、痛みと距離を取れる」


 私は瓶を受け取った。


「あなたも、管理者だったんですか」


「いや」男は首を振った。


「私は配達員だ。しかし、管理者に近い場所にいた。あなたの祖母の、最初の依頼人の一人だった」


「あなたの、何を?」


「憎しみ」男は淡々と言った。「戦争で、家族を失った。敵を憎んだ。憎しみは、毒だ。飲めば飲むほど、渇く。あなたの祖母は、その憎しみを、ある木に移した」


「木は?」


「育った。異常なほど、早く。三年で、家の高さまで。そして、ある夜、雷に打たれて燃えた。木は灰になり、憎しみも消えた」


 男は空を見上げた。


「憎しみが消えた後、何が残ったと思う?」


「何?」


「空白」男は言った。


「憎しみは、私の人生の燃料だった。それが消えると、何のために生きるのか、わからなくなった。あなたの祖母は言った。『空白は、何かで埋めるものじゃない。空白のまま、歩くの』って」


 男は私を見た。


「だから私は歩いている。毎日、この道を。配達という名目で。でも本当は、ただ歩いている。空白を埋めずに」


 男は踵を返して去った。門を出る前に、振り返った。


「次の依頼人は、もっと重い。覚悟しておけ」


 ◇ ◇ ◇


 男の予言は、その日の夕方に実現した。


 私は庭で、黒ずんだカモミールの隣に新しい苗を植えていた。循環を維持するため。一つ死ねば、一つ生まれる。それが庭の規則だ。


 ノックの音。


 いや、ノックではない。何かが門に叩きつけられる音。鈍く、重い。


 私は走った。門を開ける。


 そこに、中年の男が倒れていた。


 四十代後半。スーツ姿だが、ネクタイは緩み、シャツは汗で濡れている。顔は土気色で、唇は紫がかっている。呼吸が浅く、速い。


「助けて」男は掠れた声で言った。


「もう、限界だ——」


 私は男を家の中に運んだ。リビングのソファに横たえる。男は軽くなかった。体重以上の重さがある。それは、男の内側に溜まった何かの重さだ。


「何が、起こったんですか」


「わからない」男は目を閉じた。


「ずっと、胸が重い。石を飲み込んだみたいに。呼吸ができない。病院に行った。検査した。でも、どこも悪くない。医者は、ストレスだと言った。でも、これは、ストレスなんかじゃない——」


 男の手が、胸を掻いた。爪が、シャツの布を引っ掻く。


「ここに、何かいる。中に。取り出してくれ——」


 男は叫んだ。苦悶の叫び。それは人間の声というより、動物の声だった。いや、動物より原始的な何か。痛みそのものの声。


 私は手を男の胸に置いた。


 シャツの上から。触れた瞬間、わかった。


 男の胸の中に、確かに何かがいる。それは物理的な存在ではなく、感情の塊だ。悲嘆、後悔、罪悪感。それらが結晶化して、黒い石になっている。石は心臓を圧迫し、肺を押しつぶそうとしている。


「見えますか」男が訊いた。


「見えます」


「取り出せますか」


 私は躊躇した。昨夜の女性の時は、直感的にやった。しかし今回は違う。これは重い。あまりに重い。あの黒い石を受け取れば、私の体は耐えられるのか。


 しかし、男の顔を見る。青白く、汗だらけで、死の一歩手前だ。


「試してみます」


 私は目を閉じ、呼吸を整えた。


 祖母のノートに書いてあった言葉を思い出す。「植物の名前を呼ぶな」。では、どうやって特定の植物に繋がるのか。


 答えは、感覚だ。名前ではなく、性質で呼ぶ。


 この黒い石に適した植物は——ローズマリー。記憶と繋がる植物。そして、記憶の重さに耐えられる植物。


 私は心の中で、ローズマリーに呼びかけた。言葉ではなく、イメージで。根の深さ、葉の強さ、香りの鋭さ。


 応答があった。


 風が吹いた。部屋の中で。窓は閉まっているのに。風は私の周りを回り、男を包み、そして私の背中を押した。


《準備はできた》


 私は男の胸に、両手を置いた。もう一方の手を、床に。床の下には土がある。土の下には根がある。根は全て繋がっている。


「深呼吸してください」私は男に言った。


 男は従った。息を吸い、吐く。


「もう一度」


 吸う、吐く。


「もう一度」


 三度目の呼気の瞬間、私は引いた。


 物理的にではなく、意識で。男の内側から、黒い石を引き抜く。それは胸から喉を通り、口から——出なかった。口からは出られない。代わりに、私の手のひらから、男の体内に入った。


 石は私の腕を通り、肩を通り、背骨を下り、腰を抜け、足を通って、床に落ちた。いや、落ちたのではない。土に吸い込まれた。


 そして土を通って、ローズマリーへ。


 男が、大きく息を吸った。


 本当の呼吸。肺の底まで、空気が入る呼吸。彼は目を見開き、胸を触った。


「消えた」男は呟いた。


「あの石が、消えた——」


 男は泣き始めた。


 しかし、それは苦しみの涙ではなかった。解放の涙。長い間閉じ込められていた何かが、ようやく外に出た時の涙。


 私は、その場に座り込んだ。


 体が動かない。動かす気力がない。全身から、何かが抜けた感覚。


 そして、頭痛。


 激しい頭痛。頭蓋骨の内側を、誰かが金槌で叩いている。いや、石だ。あの黒い石。それが私の頭の中を、転がっている。


「あなた、大丈夫ですか」男が訊いた。


「大丈夫」私は嘘をついた。


「少し、疲れただけ」


 男は立ち上がった。顔色が戻っている。さっきまでの死人のような顔色は、嘘だったみたいに。


「なぜ、助けてくれたんです」


「それが、私の役目だから」


 私は自分で言って、驚いた。本当に、そう思っている。いつから、私は管理者になったのか。契約を受け入れると、まだ言っていないのに。


 しかし体は、すでに知っている。これが私の役目だと。血が、骨が、細胞が、知っている。


 男は財布を取り出した。


「お金は——」


「いりません」私は手を振った。


「これは、交換です。あなたの石と、私の時間の」


 男は財布をしまい、深く頭を下げた。


「ありがとうございました。もし、また苦しくなったら——」


「来てください」私は言った。


「でも、多分、大丈夫です」


 男は去った。玄関を出る時、振り返って微笑んだ。その微笑みには、光があった。


 私は一人きりになり、ソファに横たわった。


 頭痛が、どんどん激しくなる。こめかみに、郵便配達員からもらったラベンダーの精油を塗る。冷たく、そして香りが鼻を突く。


 確かに、男の言った通りだ。痛みは消えないが、距離ができる。痛みがあそこにあって、私がここにいる、という感覚。分離。


 私は目を閉じた。眠るつもりはなかったが、意識が遠のいていく。


 夢を見た。


 夢の中で、私はローズマリーの木だった。根が土に深く伸び、葉が空に向かって開く。そして、幹の中心に、黒い石がある。重くて、冷たくて、痛い。


 しかし、不思議なことに、この痛みは嫌ではなかった。それは私の一部だ。私を、私にしている痛み。


 ◇ ◇ ◇


 目が覚めたのは、真夜中だった。


 頭痛は、まだある。しかし、耐えられる程度になっている。私は体を起こし、窓の外を見た。


 月が出ている。地上の月。銀色の。


 そして、庭が光っていた。


 いや、庭全体ではない。一点だけ。ローズマリーの木が、光っている。青白い光。まるで、内側から照明を当てているような。


 私は裏口から庭へ出た。


 ローズマリーの木に近づく。光は強くなる。そして、気づいた。


 光っているのは、木そのものではなく、木に咲いた花だ。


 しかし、ローズマリーの花は青紫色のはずだ。この花は、黒い。


 深い、深い黒。それは色の不在ではなく、色の過剰だ。全ての色が混ざり合って、黒になった。そして、その黒が光っている。


 私は手を伸ばし、花に触れようとした。


 花が、私を見た。


 花には目がない。しかし、確かに私を見た。そして、語りかけてきた。声ではなく、存在で。


《ありがとう》


 それは、男の声だった。いや、男の声を借りた、別の何かの声。痛みの声。痛みが、感謝している。


 受け取ってくれて、ありがとう。変換してくれて、ありがとう。これから、私は花として生きる、と。


 花は、ゆっくりと開いた。


 花弁が広がり、中心が見える。中心には、小さな光。星のような。それは、男の心臓の光だ。彼が失いかけていた、生きる意志の光。


 私は手を引いた。


 これ以上、触れてはいけない。この花は、もう私のものではない。それは、男と植物の間の、新しい契約だ。


 私は家に戻り、カモミールの茶を淹れた。


 カップに注ぐ。液体を見る。底に、人影はいない。しかし、何かの気配がある。見えないが、確かにいる。


 私は茶を飲んだ。


 味は、いつもと違った。苦くて、しかし甘い。矛盾した味。しかし、矛盾こそが、真実の味なのだ。


 窓の外では、黒い花が揺れている。


 風はないのに。

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