第4話「地下の温室」
最初に気づいたのは、重力が違うということだった。
正確には、重力の方向が。地上では下に引かれるが、ここでは四方八方から引かれている。まるで、私の体が磁石で、空間全体が鉄でできているような。立っているのか、浮いているのか、その区別が曖昧だ。
目が暗闇に慣れてくる。
いや、違う。これは暗闇という名前の、別の種類の光だ。黒い光。それは矛盾しているようだが、実際に見ると理解できる。光には色がある。白、黄、青。では、黒い光があってもおかしくない。
植物たちが発光している。
少し、違う。これは、光を吸収しきれずに漏らしているのだ。彼らは光を食べている。そして消化しきれない分が、体の表面から滲み出ている。緑色の光、青い光、時折、赤い光。
私は一歩、前に進んだ。足元は土ではなく、苔だった。苔は柔らかく、足を踏み入れると、わずかに沈む。そして、苔が歌った。
本当に、歌った。
音程のない歌。リズムのない歌。しかし確かに、歌だ。それは振動で、私の足の裏から体全体に伝わり、骨を震わせた。苔は私の重さを喜んでいる。誰かに踏まれることが、彼らの存在意義なのだ。
「よく来た」
声が聞こえた。
私は周囲を見回す。しかし誰もいない。声の主は、どこだ。
「上だ」
見上げる。
そこに、空があった。
◇ ◇ ◇
天井はなかった。いや、天井があるのかもしれないが、見えないほど高い。そしてその空に、月が浮かんでいた。
だが、それは地上の月ではない。
色が違う。地上の月は銀色だが、この月は青い。深海の青。そして大きさも違う。地上の月の三倍はある。月の表面には、クレーターではなく、文字が刻まれている。読めない文字。いや、文字ではなく、文字になる前の何か。意味の原型。
「驚いているね」
声は月から来ていた。いや、月と私の間の空間から。空間そのものが喋っている。
「あなたは、誰?」
「誰でもあり、誰でもない。名前を持つには、私たちは古すぎる」
私の前に、何かが現れた。
最初、それは霧だと思った。しかし霧は動きに意志がある。そして霧は形を取り始めた。人間の形。いや、人間のような何か。
身長は私と同じくらい。しかし体は半透明で、内部に緑色の液体が流れている。血ではない。葉緑素だ。顔には目、鼻、口があるが、それらは描かれているのではなく、暗示されている。表情は読み取れない。読み取る必要がないからだ。この存在は、表情ではなく、存在全体で感情を表現する。
「私たちは、庭師だ」
霧の人間が言った。声は口からではなく、体全体から発せられる。
「庭師?」
「そう。この場所を管理する者たち」
霧の人間が手を広げる。すると、周囲の景色が変わった。いや、見えるようになった。
私は広大な空間の中に立っていた。地下とは思えないほど広い。サッカー場が十個は入る。そして空間全体が、植物で満たされていた。
巨大な木々。天井まで届く蔓。地面を覆う苔と草。花々。果実。そして、それらの全てが光っている。まるで、植物でできた星空のように。
「ここは——」
「中間界」霧の人間が答えた。
「あなたの世界と、私たちの世界の間。接点であり、交換所でもある」
私の周りに、さらに霧の人間たちが現れた。五人、十人、いや、数え切れない。彼らは木の陰から、草の中から、空気の中から、静かに姿を現した。全員が同じような姿をしているが、よく見ると微妙に違う。ある者は背が高く、ある者は蔓のような髪を持ち、ある者は全身が花で覆われている。
「交換所?」私は訊いた。
「そう」最初の庭師が答えた。
「ここでは、二つのものが交換される。人間の感情と、植物の生命力」
庭師は宙に手を描いた。すると、空中に図形が浮かび上がった。光でできた図形。二つの円が、一点で接している。
「人間は感情を持て余す。喜び、悲しみ、怒り、恐れ。それらは体内に蓄積し、毒になる。一方、植物は生命力を持て余す。成長したい、花を咲かせたい、種を作りたい。しかし環境が許さない」
庭師は二つの円の接点を指した。
「ここで、それらは交換される。人間の過剰な感情は、植物の成長エネルギーになる。植物の過剰な生命力は、人間の癒しになる。循環だ」
図形が回転し始めた。二つの円が、互いに相手の中に入り込み、また出てくる。無限に。
「あなたの祖母は、この循環の管理者だった」
「管理者?」
「そう。誰の感情を、どの植物に。どの植物の力を、誰に。それを決める者。バランスを取る者。交換所の責任者」
私は息を呑んだ。祖母がしていたことの意味が、ようやく見えてきた。
「でも、あばあちゃんが癒した人々は——」
「彼らの痛みは、ここの植物に移された。そして植物は、その痛みを栄養に変えた。痛みは植物にとって、肥料なのだ」
庭師は周囲の植物を指した。
「見よ。あの木は、ある男の喪失から育った。あの花は、ある女の孤独から咲いた。あの蔓は、ある子供の恐怖から伸びた」
私は指差された植物たちを見た。彼らは美しかった。しかし、その美しさには重さがある。誰かの苦しみの重さ。
「しかし——」私は言った。
「それでは、植物が苦しむのでは?」
庭師は首を振った。
「植物に、苦しみという概念はない。彼らにとって、感情はただのエネルギーだ。熱であり、光であり、栄養だ。苦しみも喜びも、区別しない」
「では、なぜ人間は苦しむの?」
庭師は私を見た。目がないのに、見られている感覚。
「なぜなら、人間は意味を作るから。出来事に、名前をつける。名前をつけた瞬間、それは『苦しみ』になる。しかし名前をつけなければ、それはただのエネルギーの流れだ」
庭師は手を伸ばし、近くの花に触れた。花は青く光り、庭師の手の中で形を変えた。液体になり、気体になり、また固体に戻る。
「あなたの祖母は、それを理解していた。だから彼女は、人々の苦しみを『解決』しようとはしなかった。ただ、変換した。固体を液体に、重いものを軽いものに」
私は喉が渇いているのに気づいた。しかし、ここには水がない。いや、あるのかもしれないが、それは飲める形の水ではない。
「祖母は、どうやってここに来ていたの?」
「同じ道を通って。ローズマリーの根元の扉から」
「でも、普段は? 毎回、地下に降りて——」
「いいや」庭師が遮った。
「管理者は、どこにいてもここに繋がっている。あなたが庭で土に触れる時、実際には、ここの土に触れている。二つの場所は、重なっているのだ」
庭師は再び宙に図を描いた。今度は、二つの円が完全に重なっている。
「地上の庭と、この中間界は、同じ場所の別の層だ。あなたが見ているものと、実際にあるものは、違う」
私の頭が混乱してきた。理解が追いつかない。脳が、新しい概念を処理しようと必死に働いている。
「では、私も——管理者に?」
「もし、あなたが契約を受け入れるなら」
「契約?」
庭師たちが、一斉に私を囲んだ。円を作るように。そして、全員が同時に喋った。声が重なり、和音になる。
「管理者の契約。第一に、あなたは中間界を守る。第二に、あなたは公平に交換を行う。第三に、あなたは誰にも、この場所のことを話さない」
「それだけ?」
「それだけではない」最初の庭師が前に出た。
「第四に、あなた自身も、交換の対象になる」
「どういう意味?」
「あなたが他人の感情を植物に移す時、あなたもその感情の一部を受け取る。そして、あなたが植物の力を他人に与える時、あなたの生命力の一部も失う。管理者は、フィルターではない。管理者は、通路だ。全てが、あなたを通過する」
私の体が冷たくなった。
「それでは、私は——」
「やがて、擦り減る。あなたの祖母のように」
庭師の言葉が、胸に突き刺さる。
「祖母は、それで——」
「いや」庭師は首を振った。
「彼女は擦り減ったが、壊れなかった。なぜなら、彼女は自分の痛みをも、植物に移したから。他人の痛みだけでなく、自分の痛みも。だから彼女は、最後まで機能した」
「機能」という機械的な言葉が胸に引っかかる。
「しかし、代償があった」しかし、庭師は続けた。
「自分の痛みを全て移すと、何が残る? 痛みのない人間。痛みがなければ、喜びもない。感情の振れ幅がなくなる。平坦になる。それは生きているのか、それとも——」
庭師は言葉を切った。
私は祖母の顔を思い出した。最後の三日間、ベッドの上で、祖母は穏やかだった。穏やか過ぎた。まるで、すでに半分、この世界にいないような。
「私に、選択肢はあるの?」
「常にある」庭師は言った。
「契約を拒否できる。その場合、扉は閉じる。あなたは二度と、ここに来られない。そして庭は、ただの庭に戻る」
「それで、困る人は?」
「何人か」庭師は認めた。
「あなたの祖母に救われた人々の中には、定期的に、感情の交換が必要な者もいる。彼らは、新しい管理者を探すだろう。見つからなければ——」
庭師は肩をすくめた。人間的な仕草。
「彼らは、別の方法を見つける。薬、酒、あるいは狂気」
私は目を閉じた。
選択とは、常に、何かを捨てることだ。Aを選べば、Bを失う。Bを選べば、Aを失う。しかし、何も選ばなければ、両方を失う。
「考える時間は?」
「ある。しかし長くはない」庭師は月を見上げた。
「月が新月になるまで。七日間」
七日間。一週間。短いのか、長いのか。
「それまでは——」
庭師の言葉が、途切れた。
全ての庭師が、一斉に顔を上げた。いや、上ではない。斜め上。地上の方向。
「何?」私は訊いた。
「誰かが、叫んでいる」
私には聞こえなかった。しかし、庭師たちには聞こえるらしい。
「地上で、誰かが苦しんでいる。激しい苦しみだ」
庭師が私を見た。
「行け。これは、試験だ」
「試験?」
「管理者になる前に、一度、交換を経験しろ。そうすれば、理解できる。この役目の重さが」
庭師が手を振ると、私の背後に階段が現れた。さっき降りてきた階段とは別の階段。こちらは光っていて、一段一段が白く輝いている。
「登れ。急げ。苦しみは、時間とともに深くなる」
私は階段に向かって走った。最初の一段に足をかけた瞬間、体が引っ張られた。上に。重力が反転したように。
私は階段を登った——いや、落ちた。上に向かって。
周囲の景色が流れる。植物たち、庭師たち、青い月。全てが、光の筋になって消えていく。
そして、突然、明るくなった。
◇ ◇ ◇
私は庭に立っていた。
ローズマリーの木の前。扉は閉じている。何も起こらなかったように。
しかし手を見ると、土がついている。中間界の土。黒くて、光る粒子が混ざっている。
そして、聞こえた。
悲鳴。
女性の悲鳴。門の外から。
私は走った。門を開け、外に出る。
道に、女性が倒れていた。
三十代くらい。ビジネススーツを着ているが、乱れている。髪は汗で額に張り付き、顔は青白い。両手で頭を抱え、体を丸めている。
「助けて」女性が呻いた。
「頭が、割れそう——」
私は女性の隣に膝をついた。
「大丈夫、落ち着いて」
しかし、何をすればいい? 救急車を呼ぶべきか。いや、違う。庭師は言った。これは試験だと。
私は女性の手を取った。
瞬間、流れ込んできた。
女性の痛み。いや、痛みだけではない。絶望、疲労、孤独、怒り。それらが、渦を巻いて、私の腕を通って、体の中に入ってくる。
私は叫びそうになった。しかし、歯を食いしばる。
これを、どこに流す? どの植物に?
カモミール。
なぜか、その答えが浮かんだ。カモミールは、頭痛を和らげる。そして、絶望を受け止める。
私はもう一方の手を、地面に置いた。そして、心の中で念じた。
『流れろ。私を通って、土へ。土から、カモミールへ』
最初、何も起こらなかった。
しかし、次の瞬間。
女性の痛みが、私の体を通って、地面に流れ込んだ。熱い液体が、血管を逆流するような感覚。それは痛くて、しかし同時に、心地よかった。出産の痛みとは、こういうものだろうか。何かを、体の外に押し出す感覚。
女性の呼吸が、落ち着いてきた。
顔色が戻る。体の緊張が解ける。
そして、目を開けた。
「あなたは——」
「大丈夫。もう大丈夫」
女性はゆっくりと起き上がった。まだ少し、ふらついている。
「何が、起こったの?」
「少し、休んだだけ」私は嘘をついた。
真実は、説明できないから。
女性は立ち上がり、服を整えた。そして、私を見た。
「ありがとう」
女性は去った。ふらつきながら、しかし自分の足で。
私は、その場に座り込んだ。
体が、重い。鉛を飲み込んだようだ。これが、庭師の言っていた代償か。
私は庭を見た。
カモミールの一角が、黒ずんでいる。
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