静寂の向こう側
菊池まりな
第1話
夜行バスが山道に差しかかると、車内灯が落とされた。眠りきれない乗客たちの呼吸だけが、エンジン音に重なっている。窓に映った自分の顔は、三十二歳という数字より、ずっと年上に見えた。目の下の影のせいだろう。
七年ぶりの故郷だった。
携帯の時計は午前四時半を少し過ぎている。あと一時間もすれば着く。東京から六時間。距離だけでなく、戻れなかった時間そのものを運んでいる気がした。
父が死んだのは、八月だった。認知症が進んでいたから、覚悟はしていたつもりだった。それでも、電話口で「亡くなりました」と聞いた瞬間、胸の奥が音もなく崩れた。葬儀には戻った。喪服の群れの中で、私はひどく場違いな人間のように立っていた。
「立派な先生でしたよ」
そう言って頭を下げる人たちの顔は、私の知らない父の顔を知っているように見えた。私は曖昧に頷きながら、遺影の父と目を合わせることができなかった。
私は、父の何を知っていたのだろう。
葬儀が終わると、私は逃げるように東京へ戻った。実家の片付けは後でいい、と自分に言い聞かせた。実際は、あの家に一人で入るのが怖かっただけだ。父の不在が、あまりにも生々しくそこに残っている気がして。
図書館の仕事は淡々としている。返却された本を棚に戻し、子どもたちに絵本を読む。誰かの人生に深く立ち入らず、それでも確かに役に立っている。その距離感が、五年前の私には必要だった。
書かなくていい場所。
そこに、私は逃げ込んだ。
二十七歳。デビュー作『透明な部屋』で新人賞を獲った夜のことは、今も鮮明に覚えている。祝杯、編集者の興奮した声、評論家の言葉。「この世代の才能」。その言葉に、私は救われたような気がしていた。
けれど、あの小説は嘘だった。
大学時代の友人、
売れた。評価もされた。
そして、聡美の母が、出版社を訪ねてきた。
「あなたに、娘の何がわかるのですか」
声は震えていなかった。ただ、深く、静かに沈んでいた。
「娘は、あなたに書かれるために死んだのですか」
私は何も言えなかった。言葉を探す前に、すべての言葉が崩れ落ちた。
それ以来、私は書けなくなった。原稿用紙を前にすると、白さが怖かった。文字を置くたびに、誰かの痛みを踏みつけている気がした。編集者からの連絡も、いつの間にか途絶えた。
作家・
バスが急ブレーキをかけた。前を横切った鹿の影が、ライトに一瞬だけ浮かぶ。隣の男が小さく舌打ちをした。
窓の外で、空が少しずつ白み始めている。山の輪郭が、闇から滲むように現れる。この景色を、私は何度も見た。変わらない景色。変わりきってしまった私。
父は最期のころ、同じ言葉を繰り返していた。
「返さなければ」
それが何なのか、誰に対してなのか、父はもう説明できなかった。私も深く考えなかった。ただ、あの言葉だけが、不意に胸の奥で反響する。
終点に着いたのは午前五時四十分。降りたのは私一人だった。冷たい空気が肺の奥まで入り込む。十一月の信州の朝は、冬の匂いがする。
タクシーはいない。私はバッグを肩にかけ、歩き出した。
商店街のシャッターはすべて閉まっている。かつて通った本屋はなくなり、コンビニに変わっていた。川沿いに出ると、水の音が聞こえた。父と釣りをした川。父は無口だったが、ときどき教え子の話をした。名前は出さなかった。ただ、「いい子だった」と言うだけだった。
実家の前に立つと、胸の奥が微かに軋んだ。鍵を開ける。誰もいない家に、「ただいま」と言う。返事はない。
居間に荷物を置き、窓を開ける。朝日が、静かに部屋へ流れ込んできた。父の不在だけが、妙に濃い影になって残っている。
書斎、寝室、押入れ。父の生活は、ほとんどそのままだった。天袋に手を伸ばしたとき、埃をかぶった古い菓子箱が出てきた。
「雪の宿」。
中に入っていたのは、一冊の古い日記帳だった。1963年。私の生まれるずっと前の年。
ページをめくる。
『転入生。
その名前に、指が止まった。
読み進めるほどに、父がひとりの少女と向き合っていた時間が、静かに立ち上がってくる。家庭のこと。沈黙。ノート。小さな笑顔。
最後に挟まれていた、父のメモ。
『あなたの言葉は、あなたのものです』
そして──少女の文字。
『こえがでなくても、ことばはある』
私は、その原稿用紙を見つめたまま、しばらく動けなかった。
父が「返さなければならなかった」もの。
それは、この少女の、言葉だった。
窓の外で、鳥が鳴いた。朝日が文字を照らす。
雪絵さん。
あなたは、今、どこで生きているのだろう。
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静寂の向こう側 菊池まりな @marina_kikuthi
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