アイドルオタクの姉

@Panddako

1話

親が離婚した。

姉がアイドルにハマった。


それは、ある日突然というほど劇的でもなかった。

食卓の会話が目減りし、父の箸の動きと母のまばたきだけが、やけに目につくようになった頃から、結末はうすうす予告されていたのだと思う。

ただ、紙切れ一枚で正式になった途端、家の中の空気が、どこか「物語の途中で終わった本」のように感じられたのは事実だった。


その頃、姉がアイドルに凝り始めた。


日替わりでセットリストが変わり、出てくるメンバーも微妙に入れ替わるらしい。姉はそれを追いかけるため、連日、秋葉原へ通った。

その成果は、家計ではなく、まず姉の部屋の壁に現れた。


生写真が一枚、また一枚と貼られていく。

どれも、よく似た顔に、よく似た髪型。違うのは服と、わずかなポーズの差でしかない。

それでも姉は、「このときの表情がいい」とか「こっちは衣装が神」とか言いながら、几帳面に並べていく。


壁から一枚をそっとはがすと、裏に「1,500円」と書かれた小さなシールが貼ってある。

生写真一枚、1,500円。

あの駅前の機械で、光沢紙に20円か50円で印刷できそうなものが、である。


「生写真って、要するにちょっといい紙に印刷した写真だよね」


そういう考えが頭をよぎるたびに、私はそれを飲み込んだ。

姉の信仰心に踏み込んで無事でいられるほど、私は命知らずではない。


写真の中の彼女たちは、絶妙に丈の足りないスカートをはき、

水着の色だけが違う、ほとんど同じ構図でこちらを見ている。

少しかがんでいるのは、胸をいくらか大きく見せる工夫なのだろう。

そう思って見ると、角度の違いすら、計算ずくのように思えてくる。


外の世界では、もう少し露骨な出来事があった。


先日、学校の最寄り駅で、おじさんが捕まった。

たぶん、痴漢だ。


コートが要らなくなったゴールデンウィークの終わり頃から、「また出たらしい」「○番線が危ない」という噂だけは絶えなかった。

この三ヶ月ほど、女子生徒たちはみな、ほんの少しだけ肩に力を入れて電車に乗っていたのである。


「早く捕まればいいのに」「シンガポールみたいに鞭打ち刑にすればいいのに」


そんな過激な言葉が、教室のあちこちで、半ば冗談として、半ば本気として飛び交っていた。

触られた、触られないという一瞬の事実そのものよりも、

通学のたびに背中に貼りつくような、見えない圧力の方が、よほど息苦しかったからだ。


もしも、女子生徒たちの日常にその種の緊張を撒き散らすことが、彼の本当の目的だったのだとしたら。

その歪んだ愉しみの想像だけで、私は、写真の中のかがんだアイドルたちよりも、ずっと深いところから、ぞっとさせられる。


家に帰れば、今度は別の種類の「幻想」が鳴っている。


姉の部屋からは、アイドルソングが途切れない。

好きな子の乗ったバスを追いかける歌だとか、

片思いの女の子を、バスケットボールの試合に呼ぶ歌だとか、

思春期の感情をきれいなガラス瓶に詰めて並べたような歌詞が、スピーカーから流れ出て、

その上から、姉の小さな声がなぞるように重なっていく。


歌っているのは、壁一面を占領している、あの彼女たちだ。

けれど、その言葉を書いたのは、たぶん五十前後の作詞家だろう。

スカートの裾や、汗ばむ指先や、放課後の教室の匂いまで、年季の入った職人芸で書き分けるおじさん。


そのおじさんの書いた青春が、アイドルの口から「公式の感情」として配給され、

さらにそれを、姉が聖句のように暗唱している。

台所で皿を洗っていても、風呂から上がっても、

気がつけば、家のどこかであの歌詞の一部がくり返されているのだ。


変態なのは、どこまでなのだろう。


電車の中で他人の身体を触ろうとした駅のおじさん。

制服姿の少女たちの感情を、一行いくらで量産する作詞家。

その歌詞を一字一句覚え、高校生のバイト代のかなりの部分を生写真につぎ込む姉。


あるいは、それらを少し離れた場所から眺めて、

こんなふうに紙の上に並べている、私自身かもしれない。


両親が別れて以来、我が家で「起承転結」が用意されているのは、

皮肉なことに、姉の推しアイドルのサクセスストーリーだけだ――

と気づいたとき、私はふと、壁の生写真を見上げた。


同じ顔が、季節ごとに衣装を替え、角度を変え、枚数だけ増えていく。

その整いすぎた物語が、かえって、途中で折れたままのわたしたちの生活を、

いっそうぎこちなく見せているように思えた。

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