第9話「後悔した元婚約者の来訪」
カイゼルが王都へ旅立ってから、一月が経った。
辺境は本格的な冬を迎え、世界は一面の銀世界に覆われた。
僕は、カイゼルとの約束通り、彼の代理として城を預かっていた。ゲルトさんや他の家臣たちが全力で支えてくれるおかげで、領主代理の仕事もなんとかこなせている。
毎日が目まぐるしく過ぎていく。カイゼルを思う寂しさはもちろんあるけれど、感傷に浸っている暇はなかった。
彼が安心して務めを果たせるように、僕がしっかりしなければ。その一心で、僕は前を向いていた。
そんなある日、僕の平穏を乱す人物が、辺境の地を訪れた。
「リヒト様! 城門に、ヴァレンシュタイン公爵家の紋章を掲げた馬車が……!」
騎士の一人が、慌てた様子で報告に来た。
ヴァレンシュタイン。その名を聞いた瞬間、僕の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。
なぜ、今になって、彼がここに?
僕が応接室で待っていると、扉が開き、懐かしくも忌まわしい顔が現れた。
「やあ、リヒト。久しぶりだね」
そこに立っていたのは、僕の元婚約者、エドガー・フォン・ヴァレンシュタインだった。
王都にいた頃と変わらない、完璧な貴公子の微笑み。けれど、その瞳の奥には、底知れぬ暗い光が宿っているように見えた。
「……エドガー様。一体、何のご用でしょうか」
僕は努めて冷静に、事務的な口調で尋ねた。もう、この男に心を乱されたりはしない。
エドガーは、芝居がかった様子でため息をついた。
「そんな他人行儀な。君に会いに来たに決まっているじゃないか」
彼は部屋に入ってくると、僕の向かいのソファに腰を下ろした。
「君が、あの氷の辺境伯に嫁いだと聞いた時は、驚いたよ。あんな野蛮な男の元で、さぞ辛い思いをしているだろうと、心配で夜も眠れなかった」
彼の言葉は、蜜のように甘く、そして毒のように僕の心を蝕もうとする。
「ご心配には及びません。私は、ここで幸せに暮らしております」
「幸せ? こんな何もない、寂れた土地で? 冗談だろう?」
エドガーは、僕の言葉を鼻で笑った。
「君は騙されているんだ、リヒト。あの男は、君を利用しているだけだ。君ほどの美しいオメガなら、もっと相応しい場所がある。そう、例えば……私の隣、とかな」
彼は立ち上がると、僕の座るソファの隣に移動し、僕の肩に手を置こうとした。
僕は、さっと身を引いてそれを避ける。
「おやめください」
僕の拒絶に、エドガーの表情が初めて歪んだ。
「なぜだ、リヒト! 君は、私を愛していただろう!? 私のために、健気に尽くしてくれていたじゃないか!」
「過去の話です」
僕は、きっぱりと言い放った。
「私はもう、あなたの知っている私ではありません。私の居場所は、ここです。私の番は、カイゼルです」
「番だと!? あの男が、君の運命の番だとでも言うのか!」
エドガーが声を荒らげる。
「運命かどうかは、私には分かりません。ですが、私が心から添い遂げたいと願うのは、カイゼルただ一人です」
僕の確固たる態度に、エドガーは一瞬、言葉を失ったようだった。
やがて、彼は憎々しげに顔を歪め、本性を現した。
「……そうか。辺境伯の留守をいいことに、随分と大きく出たものだな」
彼の瞳が、嫉妬の炎でぎらついている。
「リアムから、聞いたよ。君が私を捨てた後、王都まで噂が届くほど辺境伯に溺愛されていると。最初は、信じられなかった。君のような出来損ないが、あのカイゼル・ヴォルフガングを手玉に取るなどと」
「手玉になど……」
「だが、今の君を見れば分かる。君は変わった。私がいなくても、平気な顔で笑えるようになった。……それが、気に食わない」
エドガーの独占欲が、醜い牙を剥く。
彼は、僕が自分の所有物でなくなったことが、許せないのだ。僕が、彼なしで幸せになることが、我慢ならないのだ。
「いいだろう、リヒト。君がそこまで言うのなら、力ずくで分からせてやる。君が、本当は誰のものなのかを」
エドガーが、僕の腕を掴もうと手を伸ばした、その時。
「―――それ以上、あの方に触れるな」
部屋の入り口から、低く、静かだが、鋼のような強さを持った声が響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは、ゲルトさんだった。彼の後ろには、武装した騎士たちが数人控えている。
「ヴァレンシュタイン公。ここは、ヴォルフガング辺境伯の城です。我らが主の番に対し、無礼な振る舞いは見過ごせません」
ゲルトさんの目は、氷のように冷たかった。
エドガーは、悔しげに顔を歪めると、僕から手を離した。
「……覚えておけ、リヒト。私は、諦めんぞ」
捨て台詞を残し、エドガーは騎士たちに睨まれながら、部屋を出て行った。
嵐が去った後、僕はソファにへなへなと崩れ落ちた。
気丈に振る舞ってはいたが、足はガクガクと震えていた。
「リヒト様、お怪我は」
ゲルトさんが、心配そうに駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫です……ゲルトさん、ありがとうございました」
「いえ。あなた様をお守りするのも、我らの務めですから」
ゲルトさんの言葉に、僕はカイゼルの言葉を思い出していた。
『ゲルトたちが、お前を支える』
彼は、こうなることを見越していたのかもしれない。僕が一人で戦わなくてもいいように、ちゃんと守りを固めてくれていたのだ。
その事実に、胸が熱くなる。
同時に、エドガーの残した言葉が、暗い影のように心にのしかかった。
『私は、諦めんぞ』
彼は、きっとまた何かを仕掛けてくるだろう。
カイゼルのいない、この城を。
そして、僕を。
奪い返すために。
僕は、改めて気を引き締め直した。
カイゼルの大切な場所を、そして、僕自身の心を、何があっても守り抜かなければならない。
遠い王都にいる愛しい人を思いながら、僕は静かに拳を握りしめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。