第8話「都からの不穏な知らせ」

 辺境の短い夏が終わり、再び長い冬の兆しが見え始めた頃。

 僕たちの穏やかな日々を揺るがす知らせが、王都から届いた。

 その日、カイゼルの執務室に、ゲルトさんが神妙な面持ちで入ってきた。手には、王家の紋章が入った封蝋で閉じられた、一通の手紙。


「旦那様、王都より急便でございます」


 カイゼルは眉一つ動かさず、その手紙を受け取った。そして、ペーパーナイフで素早く封を切る。

 手紙に目を通す彼の表情が、みるみるうちに険しくなっていくのを、僕は隣で固唾をのんで見守っていた。

 普段、感情をほとんど表に出さない彼が、これほどまでに表情を変えるのは珍しい。よほど、良くない知らせなのだろう。


「……ちっ」

 カイゼルは短く舌打ちをすると、手紙をくしゃりと握りつぶした。

「カイゼル……? 何か、あったのですか?」

 僕がおそるおそる尋ねると、彼は僕をまっすぐに見て、重々しく口を開いた。


「王都で、隣国との緊張が高まっている。近々、大きな戦が起こるかもしれない」

「戦……?」

「ああ。それに伴い、各地の領主は、王都へ参上し、軍議に参加せよ、との勅命だ。……俺にもな」


 つまり、カイゼルは王都へ行かなければならないということ。

 しかも、それは戦が近いことを意味している。

 僕の血の気が、さっと引いていくのを感じた。


「どのくらい、行かれるのですか?」

「分からん。数週間で済むかもしれんし、そのまま戦場へ向かうことになるかもしれん」

 淡々と告げられた言葉に、心臓が氷水に浸されたように冷たくなった。

 カイゼルが、戦場へ?

 あの、雪熊を討伐した時のような、危険な場所へ?


「リヒト」

 カイゼルが、僕の肩に手を置いた。

「心配するな。俺は、必ずここへ帰ってくる」

 力強い言葉だった。けれど、僕の不安は消えない。

 戦に「絶対」はない。どんなに強い彼でも、何が起こるか分からない。

 もし、彼がいなくなってしまったら?

 そう考えただけで、呼吸が苦しくなる。僕は、いつの間にか、カイゼルのいない生活など考えられなくなっていたのだ。


「……嫌です」

 僕の口から、我ながら子供っぽい言葉が飛び出した。

「嫌です、行かないでください……!」

 こらえきれずに、涙が瞳に滲む。

 そんな僕を見て、カイゼルは困ったように眉を寄せた。そして、大きなため息をつくと、僕の体を強く抱きしめた。


「……馬鹿者」

 彼の腕の中は、いつもみたいに温かくて、安心する匂いがした。

「これは、領主としての義務だ。行かなければならない」

 頭の上から降ってくる声は、あくまでも冷静だった。

「だが、約束する。必ず、お前の元へ帰る。お前を、一人にはしない」

 彼はそう言って、僕の髪に、慰めるように唇を寄せた。


 ***


 カイゼルの出発は、三日後と決まった。

 城の中は、にわかに慌ただしくなる。ゲルトさんを始めとする側近たちは、主の長旅の準備に追われていた。

 僕は、何も手につかなかった。

 厨房に立っても、料理の味付けを間違えてばかり。夜も、カイゼルが隣にいないベッドで眠ることになるのかと思うと、なかなか寝付けなかった。

 そんな僕の様子を、カイゼルは黙って見守っていた。


 出発の前夜。

 僕たちは、二人きりで最後の夕食をとっていた。

 テーブルの上には、僕が心を込めて作った料理が並んでいるのに、二人とも、ほとんど箸が進まない。

 重苦しい沈黙を破ったのは、カイゼルだった。


「リヒト。俺が留守の間、一つ、頼みがある」

「……なんでしょうか」

「俺の代わりに、この城と領地を守ってくれ」


 予想外の言葉に、僕は顔を上げた。

「私、が……? そんな、大それたこと……」

「お前なら、できる」

 カイゼルの銀色の瞳は、僕をまっすぐに見つめていた。

「お前は、この城の者に信頼されている。お前の作る食事は、皆の心を温めている。お前の優しさは、この凍てついた土地に、温もりを与えてくれる。……俺が、一番よく知っている」

 彼は、僕にそんな評価をしてくれていたのか。

 僕が、この場所で、そんな存在になれていたのか。


「ゲルトたちが、お前を支える。だから、何も心配はいらん。堂々と、俺の番として、この城の主代理を務めてくれ」

 それは、命令であり、同時に、僕への最大限の信頼の言葉だった。

 カイゼルは、僕をただ守られるだけの弱い存在だとは見ていない。対等なパートナーとして、彼の留守を任せようとしてくれているのだ。

 その事実が、僕の胸を熱くした。

 不安でいっぱいだった心に、一筋の光が差したようだった。


「……分かりました」

 僕は、涙をこらえ、精一杯の笑顔を作って頷いた。

「お任せください。カイゼルが安心して王都へ行けるよう、私が、この場所を必ず守ります。だから……だから、あなたも、必ず、帰ってきてください」

「ああ。約束だ」


 僕たちは、固い握手を交わした。

 その夜、カイゼルは初めて、僕の部屋で眠った。

 同じベッドに入っても、彼は僕に指一本触れようとはしなかった。ただ、僕が眠りにつくまで、その大きな体で、背中から優しく抱きしめてくれていた。

 彼の心音が、僕の子守唄だった。

 どうか、この温もりが、永遠に失われませんように。

 僕は、彼の腕の中で、何度もそう祈り続けた。


 そして翌朝。

 カイゼルは、少数の供だけを連れて、王都へと旅立っていった。

 遠ざかっていく彼の背中を、僕は城門から、涙をこらえて見送った。

 もう、僕は泣かない。

 彼が信じてくれたのだから。僕は、彼の留守を守る。

 彼が「ただいま」と帰ってくる、その日まで。

 僕の、新しい戦いが始まろうとしていた。

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