第7話「穏やかな日々と、初めての笑顔」

 僕がカイゼルのそばにいることを選んでから、城での日々は驚くほど穏やかなものになった。

 カイゼルは、僕が彼の「番」であることを、城の者たちに改めて公言した。それによって、僕を見る皆の目も、より温かいものに変わった気がする。

 もはや、僕は「厄介払いで送られてきた、出来損ないのオメガ」ではなかった。このヴォルフガング領の、辺境伯の伴侶なのだ。その事実が、僕に少しずつの自信を与えてくれた。


 カイゼルは、日中は領主としての仕事に忙殺されていたが、夜は必ず僕と共に夕食をとった。そして、食事が終わると、どちらからともなく彼の執務室で過ごすのが習慣になった。

 彼は黙々と書類仕事をこなし、僕はその隣で本を読んだり、繕い物をしたりする。

 交わす言葉は少ない。けれど、同じ空間にいるだけで、心が満たされるような、不思議な安らぎがあった。


 ある晴れた日、カイゼルが僕を散歩に誘った。

「今日は天気がいい。少し外の空気を吸うぞ」

 北の辺境にも、短い夏が訪れようとしていた。雪解け水がきらきらと輝き、地面からは若草が芽吹いている。

 僕たちは連れ立って、城の裏手にある森へと向かった。

 カイゼルの隣には、いつのまにか銀狼の姿のフェンが寄り添っている。僕が来てから、彼がこの姿を見せることに躊躇いがなくなったようだった。

 フェンは大きな体で僕にすり寄ってきて、そのふわふわの毛並みを撫でさせてくれる。


「街へ、行ってみないか」

 森を抜けた先で、カイゼルが言った。

 城の麓には、小さな街が広がっている。僕はまだ、そこへ行ったことがなかった。

「いいんですか?」

「お前も、いずれこの領地を治める者の一人になる。領民の顔を知っておくのも、務めの一つだ」

 少し照れ隠しのように、彼はそんな理屈をつけた。


 二人と一匹で街へ下りていくと、道行く人々がカイゼルに気づき、次々と頭を下げた。

「伯爵様、こんにちは!」

「先日の雪熊討伐、お見事でございました!」

 カイゼルは、彼ら一人一人に、ぶっきらぼうながらも丁寧に言葉を返している。

『氷の辺境伯』『血も涙もない鬼』。

 王都での噂が、いかに事実と異なっているかを、僕は改めて実感した。彼は、領民から深く敬愛されている、立派な領主なのだ。


 そして、人々の視線は、カイゼルの隣にいる僕にも注がれた。

「あの方が、伯爵様のお相手様か……」

「なんてお綺麗な方だろう」

 囁かれる声に、居心地の悪さを感じて身を縮める僕の肩を、カイゼルがそっと抱き寄せた。

「案ずるな。俺の番に、無礼を働く者はいない」

 力強い言葉と、背中に回された腕の温かさに、僕はほっと息をついた。


 街の市場は、活気に満ちていた。

 新鮮な野菜や、狩で獲れたであろう獣の肉、それに、手作りの工芸品などが並んでいる。

「すごい……賑やかですね」

「ああ。皆、厳しい冬を越え、短い夏を謳歌しているんだ」

 カイゼルが、珍しく穏やかな顔で言った。

 僕たちは市場を歩き、カイゼルは時折店主と短い言葉を交わしながら、いくつかの品物を買っていく。僕も、見たことのない食材や、可愛らしい木彫りの小物に目を奪われた。


 一軒の露店で、色とりどりの花の苗が売られているのを見つけた。

「わあ……綺麗」

 思わず足を止めると、店の老婆がにこにこと笑いかけた。

「坊ちゃん、花が好きかい? このリントベルっていう花はな、どんな寒い土地でも、健気に花を咲かせるんだよ」

 老婆が指さしたのは、小さな青い花だった。星屑を散りばめたような、可憐な花。

 僕がその花に見入っていると、隣からカイゼルが口を挟んだ。

「……これを、もらおう」

 彼はそう言って銀貨を一枚取り出し、老婆に手渡した。


「え、カイゼル?」

「城の中庭が、殺風景でいかん。お前が、植えるといい」

 彼はそう言って、花の苗が入ったポットを僕に手渡した。

 渡されたポットは、ずっしりと重くて、温かい。土の匂いがした。

 自分のために、花を買ってくれた。

 ただそれだけのことが、胸の奥をくすぐるように、嬉しかった。


 ***


 城に戻り、早速二人で中庭の隅に花を植えた。

 カイゼルは、その大きな体に見合わず、とても手つきが器用だった。土を掘り、苗を優しく植え替えていく。

 僕も隣で手伝いながら、土の感触を楽しんだ。

 実家では、土いじりなどしたことがなかった。いつも、清く正しく、貴族の子息らしくあれと、そればかりを強要されてきたから。

 今、僕の指は泥だらけだ。でも、不思議と嫌な気はしなかった。


「……できた」

 小さな花壇に、青い花がちょこんと根を下ろした。

 それを見た瞬間、僕の口から、自分でも気づかないうちに、笑い声が漏れていた。

「ふふっ……」

 それは、心の底から湧き上がってきた、生まれて初めての、何の屈託もない笑い声だった。


 はっとして、慌てて口元を押さえる。

 隣で作業をしていたカイゼルが、僕の顔をじっと見ていた。

 彼の銀色の瞳が、驚いたように大きく見開かれていた。

「……お前、そんな風に笑うんだな」

 ぽつりと、彼が言った。

 その言葉に、僕の顔がかあっと熱くなる。

「す、すみません、はしたない……」

「いや」


 カイゼルは僕の言葉を遮ると、ゆっくりと手を伸ばし、僕の頬についた土を、その大きな親指でそっと拭ってくれた。

「……悪くない」

 彼のつぶやきは、ほとんど吐息のようだった。

 至近距離にある、彼の顔。真剣な眼差し。

 僕は、心臓が口から飛び出しそうになるのを、必死でこらえた。

 この人の前では、僕は、僕のままでいていいのかもしれない。

 偽りの仮面をかぶる必要も、自分を卑下する必要もない。

 ただ、笑いたい時に笑い、嬉しいと感じる心を、素直に表現していいのかもしれない。


 中庭に植えられた小さな青い花。

 それは、僕の心の中に芽生えた、新しい感情の象徴のようだった。

 この穏やかな日々が、どうか、ずっと続きますように。

 僕は、空に祈るような気持ちで、そっとそう願った。

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