第2話「氷の辺境伯への嫁入り」
王都を出発してから、十日が過ぎた。
道は険しくなり、馬車の揺れはひどくなる一方だ。窓の外には、針葉樹の森と、時折姿を見せる雪をかぶった山々がどこまでも続いている。
空気はガラスのように澄み渡り、息を吸い込むと肺が痛いほど冷たかった。
これが、北の辺境。
『本当に、人が住んでいるんだろうか……』
あまりの荒涼とした風景に、心細さが募る。噂に聞く『氷の辺境伯』の領地は、想像以上に過酷な場所のようだった。
やがて、馬車が速度を落とし、石畳の音に変わった。どうやら目的地に着いたらしい。
僕は固唾をのんで、ゆっくりと馬車の扉が開くのを待った。
扉の向こうに立っていたのは、屈強な体つきの、いかにも北の騎士といった風貌の男性だった。年の頃は四十代だろうか。厳しい顔立ちをしているが、その目にはどこか人の良さそうな光が宿っている。
「ようこそおいでくださいました、リヒト様。私は辺境伯様の側近を務めております、ゲルトと申します」
低く、よく通る声だった。彼は僕に手を差し伸べ、馬車から降りるのを手伝ってくれる。その手は分厚く、温かかった。
「ご足労、感謝いたします」
礼儀としてそう返したが、声は震えていただろう。これから僕の身に何が起こるのか、不安で心臓が張り裂けそうだった。
ゲルトさんに案内され、僕は石造りの大きな城へと足を踏み入れた。ヴォルフガング城。質実剛健という言葉がぴったりの、華美な装飾は一切ないが、堅牢で歴史を感じさせる建物だった。
城の中は静まり返っている。使用人の姿もまばらで、どこか活気に欠けているように感じた。
長い廊下を歩き、重厚な扉の前でゲルトさんが立ち止まる。
「旦那様が、こちらでお待ちです」
ごくり、と喉が鳴る。
この扉の向こうに、あの『氷の辺境伯』がいる。
ゲルトさんが扉をノックし、中から低く短い返事があった。扉が開け放たれる。
部屋の中央、大きな執務机に向かっている人影があった。窓からの逆光で顔はよく見えないが、その圧倒的な存在感だけで、彼がこの城の主であることが分かった。
彼がゆっくりと立ち上がる。
僕の前に現れたのは、噂に違わぬ威圧感を放つアルファだった。
黒曜石のような黒い髪。鋭い銀色の瞳は、まるで獲物を射抜く猛禽類のように、僕を真っ直ぐに見据えている。背が高く、鍛え上げられた体は、戦士そのものだ。頬には、古い傷跡が一本走っている。
これが、カイゼル・フォン・ヴォルフガング。
彼の全身から放たれる支配的なアルファのフェロモンに、僕の体は本能的に縮み上がった。恐怖で足がすくみ、動けない。
カイゼルは無言のまま僕に近づいてくる。一歩、また一歩と距離が縮まるたびに、心臓が大きく脈打った。
そして、僕の目の前で立ち止まると、彼は僕の顔を覗き込むように、わずかに屈んだ。
「……お前が、リヒトか」
地を這うような低い声。その声には、感情というものが一切感じられなかった。
「は、はい。リヒト・アッシュフェルトと、申します」
僕はかろうじてそれだけを答えた。
彼は僕を頭のてっぺんからつま先まで、品定めするように眺める。その銀色の瞳に射抜かれると、まるで心の中まで全て見透かされているような気分になった。
しばらくの沈黙の後、カイゼルはふいと顔をそむけ、ゲルトさんに向かって短く告げた。
「部屋へ案内しろ」
「はっ」
「それから、食事の用意を」
それだけ言うと、カイゼルは僕に背を向け、再び執務机へと戻ってしまった。僕に興味などない、と言わんばかりの態度だった。
『……やっぱり、道具としてしか見られていないんだ』
そう思うと、胸の奥がずきりと痛んだ。期待などしていなかったはずなのに。
ゲルトさんに促され、僕はカイゼルの執務室を後にした。
***
案内されたのは、城の最上階にある、日当たりの良い部屋だった。質素ではあるが清潔で、窓の外には雄大な雪山が広がっている。暖炉には赤々と火が燃えており、部屋の中は暖かかった。
「ここで少しお休みください。食事の準備ができましたら、お呼びいたします」
ゲルトさんはそう言って一礼し、部屋を出て行った。
一人きりになると、どっと疲れが押し寄せてくる。僕はベッドの端に腰を下ろし、大きくため息をついた。
これから、どうなるのだろう。
カイゼルは、僕に何を望んでいるのだろうか。
子を産むこと? それだけが目的なら、事を終えれば僕は用済みになるのかもしれない。
悪い想像ばかりが頭をよぎり、指先が冷たくなっていく。
その時、部屋の扉が控えめにノックされた。
「リヒト様、食事の用意ができました」
メイドらしき若い女性の声だった。
僕は重い腰を上げ、食堂へと向かった。
広い食堂には、長いテーブルが置かれていたが、席についているのはカイゼルと僕の二人だけだった。テーブルの両端に、それぞれが座っている。その距離は、絶望的に遠かった。
運ばれてきた料理は、質素なものだった。硬い黒パンと、干し肉と野菜の煮込み、それからチーズ。王都の食卓とは比べ物にならない。
カイゼルは無言で、黙々と食事を進めている。僕もそれに倣い、パンをちぎって口に運んだ。
味は、ほとんどしなかった。緊張で、喉を通らない。
気まずい沈黙が、広い食堂に重くのしかかる。
どれくらい時間が経っただろうか。先に食事を終えたカイゼルが、ナプキンで口元を拭い、立ち上がった。
彼は僕の方を見ることなく、一言だけ告げた。
「……明日からは、俺と同じものを食え」
「え?」
どういう意味か分からず顔を上げると、カイゼルはもう食堂の出口へと向かっていた。
テーブルの上に残された彼の皿を見る。そこには、僕の皿に乗っていたものと全く同じ、硬いパンと煮込み料理が残されていた。
『同じものを食え……?』
つまり、今日のこの食事は、僕のために特別に用意されたものだということだろうか。わざわざ王都から来た僕に気を使って、貴族らしい食事を準備してくれた……?
いや、まさか。あの氷のような男が、そんな気遣いをするはずがない。
きっと、何か別の意味があるのだろう。
僕は混乱したまま、冷めてしまった煮込みスープをスプーンですくった。
塩気の強い、素朴な味。
なぜだか分からないけれど、そのスープを飲み干した時、ほんの少しだけ、凍りついていた心が温かくなったような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。