家族に捨てられ「氷の辺境伯」に嫁いだら、手料理で胃袋を掴んで溺愛されました。不遇なオメガが最強のアルファと幸せになる逆転スローライフ

藤宮かすみ

第1話「煤色の絶望と婚約破棄」

「リヒト・アッシュフェルト。君との婚約を、本日をもって破棄させてもらう」


 目の前で輝く金色の髪。完璧に整えられた顔立ち。王都の女性たちの誰もがうらやむ公爵家の嫡男、エドガー・フォン・ヴァレンシュタインが、氷のように冷たい声でそう告げた。

 彼の隣には、得意げに微笑む異母弟のリアムが寄り添っている。ミルクティー色の柔らかな髪、庇護欲をそそる大きな瞳。僕と同じ、男性のオメガ。

『ああ、やっぱり』

 心のどこかで、ずっと前から分かっていた。エドガーの視線が、僕を通り越してリアムに注がれるようになったのは、いつからだっただろうか。


「な、ぜ、ですか……エドガー様」


 絞り出した声は、自分でも情けないほどにかすれていた。

 アッシュフェルト子爵家の長男として生まれた僕は、希少な男性オメガだった。それは本来、家にとって大きな利益をもたらすはずだった。より高い地位のアルファと結ばれ、家の格を上げるための、最高の駒。

 けれど、僕の後に生まれた異母弟のリアムもまた、男性オメガだった。

 愛らしい容姿と、甘え上手な性格。両親の愛を一身に受けたリアムと、出来損ないだと蔑まれてきた僕。どちらが駒として優れているかなど、比べるまでもなかった。


 エドガーは僕を値踏みするように一瞥し、やれやれと肩をすくめた。

「理由かね? 決まっているだろう。君のような地味で気の利かないオメガより、リアムの方が何倍も魅力的だからだ。そうだろ、リアム?」

「はい、エドガー様。お兄様は昔から暗くて、一緒にいても楽しくありませんもの」


 リアムがくすくすと笑う。その声が、ガラスの破片のように胸に突き刺さる。

 父も継母も、遠巻きにこの茶番を眺めているだけで、誰も僕を助けようとはしない。それどころか、その瞳には安堵の色さえ浮かんでいた。ようやく厄介払いができた、と。


「それに、君はオメガとしての魅力に欠ける。番(つがい)を惹きつけるフェロモンも弱い。そんな出来損ないを、次期公爵夫人として迎え入れるわけにはいかない」


 追い打ちをかけるようなエドガーの言葉に、目の前が真っ暗になる。

 フェロモンが弱い。それは、僕がこの家でずっと言われ続けてきたことだった。オメガとしての価値がない、と。だから僕は、せめて他のことで役に立とうと必死に勉学に励み、礼儀作法を身につけた。いつか、エドガー様にふさわしい番になるために。

 その努力も、すべて無駄だった。


「待ってください! この婚約は、両家の間で正式に決められたものです! 一方的な破棄など……」

「ああ、そのことだが」


 エドガーが楽しそうに目を細める。

「アッシュフェルト家からは、君の代わりにリアムを俺の番として差し出すと、言質をいただいている。つまり、これは両家合意の上での婚約者の交代だ。破棄ではない」

「そん、な……」


 父の方を見ると、彼は気まずそうに顔をそむけた。僕の知らないところで、全ては決められていたのだ。僕という駒を捨て、リアムという新しい駒を差し出すことで、公爵家との繋がりを維持する。それが、この家の選択。


「そういうわけだ、リヒト。君はもう用済みだ」

「これからは、私がエドガー様をお支えしますわ。お兄様は、どこか遠くで静かにお暮らしになってくださいね」


 リアムの言葉は、気遣うふりをした残酷な宣告だった。

 僕はもう、この家にいることすら許されない。

 唇を噛みしめ、こみ上げてくる涙を必死にこらえる。ここで泣けば、彼らの思うつぼだ。惨めな姿を晒して、嘲笑われるだけ。

 僕はゆっくりと頭を下げた。


「……承知、いたしました。これまで、お世話になりました」


 声が震えなかったのは、奇跡だったかもしれない。

 顔を上げることなくその場を背を向け、僕は逃げるように自室へと戻った。扉を閉めた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、その場に崩れ落ちる。


『用済み、か』


 惨めで、情けなくて、涙も出なかった。ただ、胸にぽっかりと大きな穴が空いたような、途方もない喪失感が全身を支配していた。

 この屋敷は、もう僕の居場所じゃない。では、僕はどこへ行けばいいのだろう。


 ***


 そんなことを考えていた数日後、父に呼び出された僕は、さらに深い絶望の底へと突き落とされることになる。


「お前に、新たな縁談が決まった」


 父は事務的な口調で、一枚の羊皮紙を僕の前に突き出した。

 そこに書かれていた名前に、僕は息をのんだ。


『カイゼル・フォン・ヴォルフガング辺境伯』


 ヴォルフガング辺境伯。王国の北の果て、一年中雪に閉ざされているという極寒の地を治める貴族。そして、その当主であるカイゼルは、『氷の辺境伯』『血も涙もない鬼』と都で噂される、恐ろしいアルファだった。

 戦場では敵を容赦なく屠り、その領地へ足を踏み入れた者は二度と戻ってはこない、と。


「なぜ、辺境伯のもとへ……?」

「公爵家との縁談がなくなった以上、お前を置いておく価値はない。だが、ヴォルフガング辺境伯が『理由は何でもいいから、オメガの伴侶を一人よこせ』と王家に要請を出していてな。ちょうどよかったのだ。お前のような出来損ないでも、貰ってくれるというのだから、感謝しろ」


 感謝しろ、と父は言った。

 これは縁談などではない。厄介払いのために、生贄として差し出されるだけだ。

 恐ろしいアルファのもとへ送られ、子を産むための道具として扱われ、いずれは静かに殺されるのかもしれない。そんな未来しか、思い描けなかった。


 けれど、僕に拒否権などなかった。

「……分かり、ました」

 そう答えるのが精一杯だった。


 ***


 荷造りといっても、僕の持ち物はほとんどない。数着の簡素な服と、亡き母が遺してくれた一冊の料理の本だけ。

 屋敷を出る日、見送りに来た者は誰もいなかった。まるで、最初から僕など存在しなかったかのように、家は静まり返っていた。

 用意されたのは、たった一台の粗末な馬車。御者台に座る無口な男に促され、僕は故郷に背を向けた。


 揺れる馬車の中で、僕は膝に置いた料理の本を強く握りしめる。

 母は、僕と同じオメガだった。体が弱く、僕を産んですぐに亡くなったと聞いている。父の愛情が、後妻とリアムに向かうのは仕方のないことだったのかもしれない。

 それでも、この本を開くと、母の温もりを感じられるような気がした。


『どんなに辛い時でも、温かいスープを一杯飲めば、心も少しだけ温かくなるのよ』


 母が本の余白に書き残した言葉。

 今の僕の心は、凍てついた冬の荒野のようだ。温かいスープ一杯で、溶かすことなどできそうもない。


 馬車は北へ、北へと進んでいく。

 窓の外の景色は、日に日に緑が減り、灰色と白の世界に変わっていった。肌を刺す空気は冷たく、僕の未来を暗示しているかのようだった。

『氷の辺境伯』の元へ嫁ぐ、出来損ないのオメガ。

 それが、僕の新しい名前。

 これから始まるのがどんな地獄であっても、もう涙は流さない。僕はただ、静かに運命を受け入れるしかなかった。

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