第3話「噂と違う辺境の暮らし」

 辺境伯の城での最初の夜は、眠れずに明けた。

 広すぎるベッドと、慣れない静寂。そして、いつカイゼルが部屋にやってくるかという恐怖。しかし、僕の心配をよそに、夜明けまで扉が開かれることはなかった。


 翌朝、目を覚ますと、メイドが朝食の準備ができたと知らせに来てくれた。

 緊張しながら食堂へ向かうと、昨日と同じように、カイゼルはすでに席についていた。そして、僕の前に置かれた食事を見て、僕は目を丸くした。

 テーブルに並んでいたのは、オートミールの粥と、焼きたての香りがする白いパン、それにたっぷりのミルクと蜂蜜。昨日とは比べ物にならないほど、温かく、美味しそうな朝食だった。


 僕が戸惑っていると、カイゼルがぶっきらぼうに言った。

「……食え。口に合わんか」

「い、いえ! そんなことは……ありがとうございます」

 慌ててスプーンを手に取る。温かい粥を口に運ぶと、優しい甘さがじんわりと広がった。こんなに美味しい食事は、いつぶりだろうか。実家では、いつも残り物のような冷たい食事しか与えられていなかった。


 僕が夢中で食べているのを、カイゼルは黙って見ていた。その銀色の瞳にどんな感情が宿っているのか、僕にはまだ読み取ることができない。

 食事を終えると、カイゼルは立ち上がり、また短い言葉を放った。

「ゲルトに城を案内させろ。好きに見て回るといい」

 そして、僕が返事をする間もなく、さっさと部屋を出て行ってしまった。


『好きに、見て回る……?』


 てっきり、部屋に閉じ込められるものだと思っていた。

 昨日から続く、カイゼルの予想外の行動に、僕はただただ困惑するばかりだった。


 ***


 僕を呼びに来たゲルトさんに連れられて、城の中を見て回ることになった。


「ヴォルフガング城へようこそ、リヒト様。何か不自由なことがあれば、いつでも私か、他の者に申し付けてください」

 ゲルトさんは、見た目の厳つさとは裏腹に、とても丁寧な口調で話す人だった。

「ありがとうございます、ゲルトさん。ですが、様付けはやめてください。リヒトと」

「いえ、そうはいきません。あなたは、この城の新しい主(あるじ)なのですから」


 主、という言葉に、どきりとする。

 僕はただの生贄で、いつ捨てられてもおかしくない存在のはずだ。

「そんな……私は……」

 言いよどむ僕に、ゲルトさんは穏やかな目を向けた。

「旦那様がお認めになった方です。我々も、あなた様を主としてお迎えいたします」


 その言葉には、嘘やごまかしは感じられなかった。

 カイゼルは、僕を伴侶として、皆に紹介しているのだろうか。

 訳が分からないまま、僕はゲルトさんの後について歩いた。


 城は、外から見た印象通り、実用性を重視した造りだった。図書室には膨大な数の蔵書が並び、訓練場では騎士たちが厳しい鍛錬に励んでいる。そして、僕が何よりも驚いたのは、城の厨房だった。

 広々とした厨房には、大きなかまどがいくつも並び、壁には使い込まれた調理器具がずらりと掛けられている。食料庫を覗くと、そこには干し肉や塩漬けの魚、乾燥野菜、豆類、小麦粉などが山のように積まれていた。


「すごい……こんなにたくさんの食材が」

「北の冬は長くて厳しいですからな。これでも、冬を越すにはギリギリです」

 ゲルトさんはそう言って笑った。


 この城の人々は、厳しい自然の中で生き抜くために、知恵と工夫を凝らしているのだ。

 ふと、僕は自分の手元にある、たった一つの荷物を思い出した。母が遺してくれた、料理の本。

『温かいスープを一杯飲めば、心も少しだけ温かくなる』

 母の言葉が、頭の中でよみがえる。


「あの、ゲルトさん」

 僕は、意を決して口を開いた。

「もし、よろしければ……私が、厨房を使わせていただくことは、可能でしょうか」

「リヒト様が? もちろんでございますが……なぜ?」

「少し、作りたいものがあるんです。皆さんの、お口に合うか分かりませんが……」


 僕の申し出に、ゲルトさんは少し驚いたようだったが、すぐに料理長に話を通してくれた。

 料理長は、熊のように大きな体の、無口な男性だった。彼は僕をじろりと見ると、「好きにしろ」とだけ言って、場所を空けてくれた。

 僕は深呼吸を一つして、袖をまくった。


 実家では、厨房に立たせてもらえることなど、ほとんどなかった。料理は、僕にとって唯一の心の安らぎだったのに。

 ここでは、誰も僕を止めない。それどころか、興味深そうに遠巻きに見ている。

 僕は食料庫から、干し肉と、乾燥野菜、それから豆をいくつか選んだ。大きな鍋に水を張り、火にかける。

 母の本に載っていた、北の地方の郷土料理。体を温める、具だくさんのスープだ。

 コトコトと、鍋が心地よい音を立て始める。野菜と肉のいい匂いが、厨房に立ち込めてきた。

 料理をしていると、不思議と心が落ち着いてくる。無心で食材を切り、味を調える。その時間だけは、自分の境遇を忘れられた。


 ***


 スープが出来上がった頃、ちょうど昼食の時間になった。

 僕は出来上がったスープを、食堂へ運んでもらうようにお願いした。

 カイゼルの反応が怖かった。勝手なことをして、怒られるかもしれない。

 けれど、どうしても、彼に食べてもらいたかった。昨日の、温かい食事のお礼に。


 食堂に行くと、カイゼルはもう席についていた。

 彼の前には、僕が作ったスープが置かれている。

 カイゼルは無言でスプーンを手に取り、スープを一口、口に運んだ。そして、ぴたりと動きを止める。

 僕は、心臓が止まるかと思った。

 まずかったのだろうか。口に合わなかったのだろうか。


 沈黙が、痛いほど長く感じられる。

 やがて、カイゼルはもう一口、ゆっくりとスープを味わうように飲み込んだ。

 そして、僕の方をまっすぐに見て、言った。


「……温かい」


 たった、その一言。

 けれど、その言葉は、どんな賛辞よりも僕の胸に深く、温かく響いた。

 銀色の瞳が、ほんの少しだけ、和らいだように見えたのは、きっと気のせいではないだろう。

 僕が作ったもので、人が喜んでくれた。

 ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいなんて。


「……お前が、作ったのか」

「は、はい。お口に合いましたでしょうか」

「ああ」

 短い肯定。

 それから、カイゼルは最後まで黙々と、しかし、どこか丁寧な仕草で、スープを全て飲み干してくれた。


 その日の午後、僕は再び厨房にいた。

 料理長が、ぶっきらぼうな口調で話しかけてくる。

「嬢ちゃん、いや、坊主。明日は何を作るんだ」

 どうやら、僕のことを少し認めてくれたらしい。

 噂に聞く辺境の暮らしは、冷たく、厳しいものだと思っていた。けれど、実際に触れた人々は、無愛想だけれど、どこか温かい。

 そして、あの『氷の辺境伯』も。

 彼は、僕が思っていたような、恐ろしいだけの男ではないのかもしれない。

 ほんの少しだけ、この場所で生きていけるかもしれない、と。そんな小さな希望の光が、僕の心に灯り始めた一日だった。

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